昔の写真師に敵わない

 日本カメラ財団であった古写真を読み解くという催しに出て、驚いた。200人くらいは入るホールがほぼ満員なのだ。大半はお年寄りだったが、中に若い男女の姿もある。明治から大正期の銀座、京橋から築地にかけての写真を、現在の様子を念頭に置きながら、解説するという趣向である。何でそんなものに? 自分もそこにいるのを棚にあげて、不思議でならなかった。


 これが人物写真となれば、何のだれ兵衛がどこでどんな場面で撮ったとか、一緒に写っているだれそれとのいわく因縁だとか、時代背景がどうだとか、専門家の解説も必要かもしれない。だが、町の風景ならだれが見たって一目瞭然だろうーーそう思っていたのだが、違った。古写真の見方にもいろいろあるものだと感心もし、また解説はそれなりに面白かった。
中岡慎太郎はなぜ笑っているのか
 ただ、これらの写真がどんな機材を使ってどう撮られたのか、そこに関心のある人は、わたし以外にはいないようだった。それはそうだろう。大判写真を、それも古い機材で実際に撮ってみないと、そういう発想は出てこない。写真は現にそこにあるのだから、それでいいではないか。これ、美術館の学芸員ですら、そうなのである。
 月刊写真工業の連載のはじめのころ、「龍馬は笑わず」という話を書いたことがある。龍馬が生きたのはまだ湿板の時代だから、あの有名な肖像も露光に数秒はかかった。笑って笑えないことはないだろうが、撮影風景はずいぶんと薄気味の悪いものになったろう。やはり笑えるようになるのは、感度の高い乾板になってからだった、というお話であった。(写真右上 坂本龍馬記念館所蔵)
 ところが、中岡慎太郎の笑った写真というのがあった。これがまた、とびきりの明るい笑顔である。慶応3年(1867年)京都四条の近江屋で、龍馬と一緒に暗殺されたのだから、同じ時代は間違いない。なのになぜ、彼は笑っているのか。(写真右 中岡慎太郎館所蔵)
 中岡は頬づえをついていて、顔はやや不鮮明(やはり動いた?)だが、他の部分は鮮明だ。これは、古い写真では普通のことで、顔がいちばん動きやすい。が、笑顔は実に自然で、乾板の時代か、あるいはもっと後の時代の写真とあまり変わらない。
 また、写真の左側は不自然に切り取られている。中岡の膝に乗っている着物の袖の模様と背後に見える飾りのようなものから、何かの扮装をした女性が写っていたようようにもみえる。舞子にでも寄り添って、思わず笑い顔になったものか。
 そこで、日本カメラ博物館の古写真の専門家、井桜直美さんに聞いてみたら、「芸者さんが写っていたんです」という。やっぱり。オリジナルを見た記憶があるとも。「家族の方が切り取ったのでしょう」
 いやいやそうではなくて、聞きたいのは、なぜ中岡が笑っていられたかだ。この写真を見ていると、ひょっとして割と短い露光時間で撮られたのではないか、と思えてくるのだ。
◆ 古写真好きの盲点


 これ実は、湿板写真でしばしば抱く疑問である。わたしは1秒くらいの露光をよくやるが、何かによりかかってでもいないかぎり、10人のうち3人くらいは間違いなく動いてしまう。人間は息をするだけで動く。とくに顔と上半身が動きやすい。
 わずか1秒でもこうなのだから、数秒間動かないために、昔はいろいろ小道具を使った。首の後ろに支えを置き、何かに寄りかかる、頬づえをつく‥‥龍馬も中岡も、その作法をきちんと守って写っている。
 それでも笑顔にはリスクがあった。湿板写真に笑顔が少ないのは、写真師が失敗を恐れたからであろう。しかし一方で、幼い子どもがひとりで、あるいは母親に抱かれて、全く動いていない写真というのがある。どころか、イヌやネコ、ウマまでがちゃんと写っているのもある。幼児やイヌ、ウマが5秒も6秒もじっとしているなんてありえない。(写真左 幼児2人だけというのは珍しい。さすがに目の辺りは動いているが、それでも3秒が限度だろう)
 しかし、その不可能が現に写っているのだから、結局露光時間が短かかったとしか思えない。湿板の感度はASA0.5から1とされるから、当時の暗いレンズで1秒や2秒で写るはずがない。いまでいう「増感」みたいな技術があったのではないか。疑問とは、このことである。
 湿板写真は1880年の乾板の登場までざっと30年間続いた。焼き増しができるというので、家族写真がブームになり、60年代には小型の名刺写真が流行した。ここにあげたのは、「Cartes de Visite(名刺)」という湿板の名刺写真を集めたドイツ本の表紙だ。女児が差し出した指を見つめて、イスの上でお行儀よくしているイヌ。「写るはずのない写真」である。(写真左)
 こんな話をしていたら、井桜さんは自著の「セピア色の肖像」をもってきた。ご自分のコレクションをまとめたものだという。中にイヌがあった。それも前足をあげて「チンチン」しているところだ。「エーッ!」である。
 よくみると、さすがに顔は動いているが、イヌにはせいぜい2秒が限度。ますます写るはずのない写真ということになる。しかし井桜さんは、あまり疑問に思わなかったらしい。それはそうだ。写真は目の前にあるのだから。ポイントは、少なくとも1秒とか2秒とかで撮ったに違いない、そのワザは何だったかなのだ。(写真下 犬の写真は高速シャッターでも難しい。まして集合となったら、もう祈るしかない)
◆歴史の闇に消えた秘伝
 おそらくは「秘伝」である。弟子にだっておいそれとは教えないような、書いたものも残さないような、写真師それぞれの工夫があったのではないだろうか。われわれは上野彦馬と下岡蓮杖の技術が必ずしも同じでなかったことを、薄々感づいてはいる。しかし、どう違ったのかはわからない。まして感度を上げるとなれば、秘技中の秘技だったはずである。
 幸か不幸か、それらすべては乾板の登場とともに雲散霧消した。乾板の高感度と簡便さが、文句なしに秘伝を上回ったからだ。哀れ秘伝は、コダックのおかげで闇に葬られてしまう。写真師1人ひとり違った薬品の調合なんかを、書きとめる必要もなくなったのである。
 古写真ではまた、「なんでこんなにシャープなのか」と考えこまされること、しばしばである。先頃東京都写真美術館であった「侍と私」展は、初期写真でポートレートを考えるという企画だったが、一眼レフのレンズをはずしてルーペ代わりにのぞいてみた。もうびっくりの連続である。
 肖像だとあまり大きなものはないが、集合写真でも個人でも、ダゲレオタイプから湿板、乾板、どれをとっても、「負けた」というような作品ばかりだった。とにかくシャープなのだ。1枚の画面に切手くらいの大きさの顔が沢山並んでいるものがあって、どうかなとのぞいたところ、一つひとつが完璧だった。「こんなことってあるのか」と、先輩と顔を見合わせた。
 使われたレンズは、ペッツバールかラピッド・レクチリネア(RR=アプラナートと同じ)か単玉のメニスカスか。それ以外にシャープに写るレンズはなかった。わたしはいまこれらのレンズで普通に撮っているから、あらためて当時の写真師のワザのほどがよくわかる。
 当時性能として最高のレンズはRRで、これをぐっと絞り込むと、厳密な収差の話はともかく、後のテッサーやトリプレットにひけをとらない絵が撮れる。問題はピントの奥行きだ。イメージサークルの大きいレンズは、絞り込んでも被写界深度はそれほど深くはならないから、アオリを使ったりいろいろしないといけない。
◆なぜ「負けてる」のか
 これ実は現代レンズでも同じである。つまり、どこまで絞ってアオリをどう使うかに関しては、湿板も乾板も明治も昭和も、われわれと同じ土俵に立って対等に勝負しているわけだ。だからこそ、彼らのワザが並々ならぬものであるとわかるのである。なぜって、フィルム感度がけた違いなのだから。(写真左 2分の1秒くらいで撮っているが、目にピントが合って、かつ動かなかったのは奇跡に近い)
 わたしはASA100、320、400といった高感度フィルムを使っているから、レンズが暗くてもへっちゃらだが、湿板の感度はそれらの1/100とか1/400、1/800、乾板では10から20倍になるが、どっちにしてもとてつもないハンデである。そこをさらにF11だの16、22とかに絞って彼らは撮っている。でないと、鮮明な写真は絶対に撮れない。
 1人2人の肖像写真はそれほど絞らなくてもいいが、集合写真や風景となると、どれだけ絞ったらピントがゆきわたるか、現代レンズを使ってもまことにおぼつかないものだ。しかし、それがちゃんと写っているのだから、それだけでも「負けた」という気分になるのに、さらに「え? どうして?」というような写真がいくらでもある。
 厚木のかとう写真館で、加藤芳明さんのお父さんの写真を見せてもらった。3枚あって、1枚は小学校の集合写真。あとの2枚は厚木の祭りの集合写真で、どれも大きさはバイテンの上の四つ切り11x14インチの密着焼きだ。

 時代は大正の終わりから昭和のはじめだろう。どれも地元の写真館が撮ったものだが、ピントがすごかった。ルーペでのぞいてみると、乾板といえどもさすが密着の威力、その鮮明なこと驚くばかり。とくに小学校の写真は、1人ひとりがすごいだけでなく、後ろの建物から屋根瓦にいたるまで、見事なピントだ。
 また、お祭りの写真は、豆粒のような人物がどれも識別可能で、なかに大判特有のピントのエアポケットみたいなものも、ちゃんと読み取れる。1枚は変色して銀が浮いてきているのだが、手前中央の人物から、はるか後ろの屋台のてっぺんの神武天皇かなんかの人形までピントが通っている。もう1枚の左にある「加藤自転車店」というのが、加藤さんの実家なのだそうだ。
◆もっと驚くのが‥‥
 まさに旧き良き厚木。これらが、別に名のあるわけでもない、地元の写真師の手によって、しっかりと捉えられている。写真師はまるで魔法使いのように見えたかもしれない。写っている人たちはプリントを前に、あだこうだと長い長い時間を楽しんだに違いない。
 まあ、これは昭和に入ってからだから、技術的には現代とほとんど変わらないのだが、「では、お前これが撮れるか」といわれたら、やっぱり考え込んでしまうだろう。まず、11x14インチというカメラがない。イメージサークルがそんなにでっかいレンズもない。だから実のところ、そんなレンズで四隅までピントがくるかどうかも体験したこともない。ここでも見事に負けなのである。
 なんで古写真はかくもシャープなのか。レンズだってどれも手探り設計の手磨き。おまけに長時間動いてはいけないというのに‥‥その謎の最たるものが、ダゲレオタイプである。この時代、レンズはもっと不自由だったはずなのに、エッと驚くものが沢山ある。
 一度横浜で、ダゲレオタイプの撮影風景をみたことがあるが、銀板を用意して戸外に人を立たせて、露光がなんと8分だった。写される人たちは嬉しそうにじっとしていたが、みんなちょっとづつ動いていた。息をしているのだから当然だ。しかし、本物の古写真となると、まさに鳥肌が立つ。
 ここに載せた「サミュエル・F・B・モース」は、画家で発明家。電信の「モールス信号」のモールスその人なのだが、ダゲレオタイプがパリで発表されたあと、真っ先にカメラと技術をアメリカに持ち帰ったことでも知られる。彼は電信開発費用を稼ぐために、ニューヨークで写真教室を開いた。集まった中にマシュー・ブレイディーやエドワード・アンソニーがいて、やがてアメリカ写真のパイオニアになるのだが、この肖像は、そのブレイディーが撮ったものだ。(Library of Congress)
 見れば見るほど、「どうやったんだ?」と思ってしまう。露光が何分だったかはわからないが、いかに小道具があったとはいえ、まあ今の感覚でいえば気の遠くなるほどの時間じっと動かず、なおかつ目がこんなにはっきりしているとは、どういうことか。
 ブレイディーもアンソニーダゲレオタイプで著名人を沢山撮っている。リンカーン大統領もその1人だが、みな我慢強かったのは確かだ。撮られたいという意欲のほどが違ったのであろう。昔も今も肖像写真は、撮る側と撮られる側との共同作業なのだ。
 彼らのワザが、もしわかったとしても、あえて実践する必要はない。ただ、手探りで歴史を作った、いにしえの写真師たちへのオマージュにはなる。秘伝や仕掛けを探り出して、たたえてやりたいものだ。その様々なワザのお陰で、われわれは貴重な歴史のひとこまを、いまも見ることができるのだから。