湿板写真はナゾだらけ


 古い写真の展覧会を見ると,必ず何らかの発見があって、しかも有無をいわせぬ力量の差を見せつけられて、打ちのめされた気分で帰ってくることが多い。今回もそうだった。東京都写真美術館の「ストリート・ライフ」。サブタイトルが「ヨーロッパを見つめた7人の写真家たち」で、町と人間を撮ったものばかり。わたしの好きな写真である。
◆恐れ入りやの鬼子母神

 しかし、7人の写真家のうち知っていたのは,ウジェーヌ・アジェ(1857-1927)、ブラッサイ(1899-1984),アウグスト・ザンダー(1876-1964)の3人だけ。イギリスの3人、トーマス・アナン(1829-1887)、ジョン・トムソン(1837-1921)、ビル・ブラント(1904-1983)とドイツのハインリッヒ・ツィレ(1858-1929)は,全く知らなかった。
 ストレートに衝撃を受けたのは、アナンだった。1860年代の終わり、グラスゴー市の依頼で、再開発で取り壊される建物群を記録するために、そこにいる人間と一緒に撮っている。湿板の技術の真ん真ん中である。日本でいえば坂本龍馬を撮ったのと同じ技術と思っていい。露光に数秒間かかったから、人間の多くは動いてしまっているのだが、驚いたのはピントだ。
 路地の奥をのぞきこんだり,大通りをはるかに見通すような絵柄が多いのだが、手前の建物からはるか彼方まで、ぴっちりとピントが合っている。長時間動かなかった人間もちゃんと写っている。しかも薄暗い光線のものまである。いったいこれはどういう技なのか。今の大判で「撮れるか?」と聞かれても、「ごめんなさい」というしかない。(アナンが撮ったグラスゴー市内)
 フェリーチェ・ベアトが撮った箱根の宿場の写真を思い出す(右)。あれもピントは手前から向こうの山まできていた。真っ昼間だし、あおりでなんとかなったのかもしれない。しかし、アナンのは、建物のカベが両脇に迫っているのだから、あおっていればかならずボケがどこかに出るはずだが、それが全くない。 学芸員の方に、「この写真、いま撮れといわれても撮れませんよ」といったのだが、「乳剤が厚いからじゃないですか」なんていう。当時のレンズにはまだ収差がたっぷり。それでなくても大判レンズは、多少絞り込んでも被写界深度は深くはならない。まして感度の低い湿板である。絞ればそれだけ露光時間が長くなるから、今度は人間が困る。しかし、それらはほどほどに写っているのである。
◆感度も大いなるナゾ

 乾板で撮ったアジェになると、絞り込みもできただろうが、それでもものによってはボケが出ている。「そう、それが当たり前なんだよ」とホッとしたりするが、大方は町の全景でちゃんとピントがきているのだから、やっぱり技を感じてしまう。(写真左は相当に絞り込んでいる。人がいないのではなく、長時間露光で写っていない。右は珍しく人を撮ったもの。ボケがある)
 トムソンのプリントはウッドベリータイプという,一種の印刷だった。1900年頃までは、これが出版物の画像印刷の主流だった。しかし、元は湿板写真だから、じっくりピントを合わせて長時間露光という撮影上の制約は全く同じである。並んでいた印画はキャビネ判より小さいが、「撮影原版はもっと大きかったのではないか」(東写美)という。
 トムソンはこれでロンドンの下町の市民生活をストレートに撮って,「Street Life in London」という写真集にしている。これがまたすごい。町も写っているが中心は人物で,いずれも撮影を意識してポーズをとっているのだが、日本の幕末の写真と違って、みな実にリラックスした感じ。中には動いちゃった人もいて、これも自然だ。ピントも申し分ない。(右の赤い写真がトムソン)
 中に1枚、犬が写っているものがあった。湿板のナゾのひとつである。顔は少し動いているものの身体はちゃんと止まっている。犬が5秒も6秒もじっとしているはずはないから、露光時間はそう長いとは思えない。湿板の最後の頃は、実質かなり高い感度だったと推測できるのは、動物や子どもがちゃんと写っているからだ。乾板とそう変わらなかったと推測する人もいる。
 だが、これは誰でもできたわけではなかった。写真師個々の「秘伝」だったに違いない。乾板の登場が革命的であったのは,感度が少なくとも20倍にはなっていたからで,それら「秘伝」はことごとくくずかごに放り込まれてしまったのである。だから、湿板での高感度あるいは増感現像に類する記録というのは見たことがない。しかし、犬や馬は現に写っている。
◆甦る湿板写真
 思い出すのは「不思議の国のアリス」のルイス・キャロルだ。彼は乾板になったとたんに、写真撮影そのものをやめてしまった。が、その後の彼の詩の中に湿板の薬品の名前をずらりと並べたものがあった。「乾板の時代になぜ? ごまめの歯ぎしりか」といぶかったものだが、ひょっとして「秘伝」だったのかなとも思う。

 そのときはもう乾板の時代だから、詩を読んでもだれも試してみる気にはならなかっただろうが、あえて古い薬品の名前を並べてみせたのには,理由がありそうだ。彼が写真をやめた理由を推測したことがある(「ルイス・キャロル探索」参照)が、それとは別に、湿板のワザも誇りたかったのではないか。
 彼の写真が,乾板に匹敵する高いレベルにあったのは間違いない。とくに、アリスのモデルだったアリス・リデルの姉妹たちには、長時間露光では難しいデリケートなポーズがある(左)。しかし、誰も動いていない。犬や馬と同じだ。露光時間が短かったのではないか。だれか,詩の通りに再現でもしてみたら面白いかもしれない。
 その湿板がいま、アメリカで甦りつつあると聞いた。昨年秋にあった大判グループの写真展で、そのサンプルがあった。プリントもあったが、なかにガラス板がそのままぶら下げてあったのには驚いた。後ろに黒い紙や布を置くと、ネガがポジになって見えるーーアンブロタイプそのものだ。
 古い乾板でのいたずらはずいぶんやったが、期限切れ80年なんていうと、やっぱりいい結果はなかなか出ない。しかし、こちらは間違いなく上野彦馬の時代のワザである。なにやらキツネにつままれたような気分になった。手がけたのは、六本木のラボ「田村写真」の田村政実さんらで、聞けば、ややこしいコロジオンの薬品がキットになっていて、ネットの通信販売で手に入るのだという。
南北戦争がはじまり
 アメリカには以前から、湿板カメラを作っている人がいた。湿板写真の愛好会もいろいろあって、昔ながらの処方で撮った作品がネットに載ってもいる。ただその中身となると、南北戦争の激戦地など歴史的な場所で、わざわざ当時の軍服を着込んだりして、これを湿板で撮るという、手の混んだ再現ものが多かった。
 「なんとまあ、ご苦労さまなことを」と見ていたのだが、最近さらに愛好者が増えているらしい。田村さんによると、この3年くらいのことで、薬品のキットの出現がバネになっているという。しかし田村さんは、それだけではないという。
 先のコダックの破綻では、まだしばらくフィルムの生産だけは続くことになったものの、工業製品としてはもはや先が見えた。といって、乾板の復活はありえない。これだって工業製品なのだから。では、デジタルの大判が安い値段でできるかというと、その可能性もない。(「出よ!デジタルのダゲール」参照)
 となると、ひとりで好き勝手に整えることができる大判の感剤は、湿板しか残らない。コダックがつぶれようが、フジが撤退しようが関係ない。むしろ、新しい写真感剤として注目されてきているのだと、田村さんは見る。「団塊の世代がヒマになっているし‥‥」。確かにアメリカにも団塊の世代はある。時間のある年寄りには格好のお遊びだ。若者だって、デジタルの便利は面白くない、というへそ曲がりはいるだろう。
 現に最近のネットを見ると、南北戦争から肖像、ヌード、風景写真、湿板の不完全を逆手にとった芸術志向など、内容がバラエティーに富んできた。グループも大学にまで広がっている。数は決して多くないにしても、「アメリカはやっぱり奥が深いなぁ」とあらためて思う。
◆湿板の泣き所
 そのコロジオンのキットを見せてもらった。作っているのは「Bostick & Sullivan」という Santa Feの会社らしい。A液とB液の2液あって(写真の左の2本)、混ぜ合わせてしばらく置くとコロジオンになる。右の赤い液がそれで、はじめは薄い黄色がだんだん濃くなって、やがてダメになるのだそうだ。後ろに見えるのが現像液で、ここまでがキットになっている。
 コロジオンの本来の処方はかなり複雑で、ブロマイド、カドミウム、ヨウ化カリウムヨウ化銀、臭化銀だなんだかんだ、相当な数になる。なかにはほんの少量しか使わないものもあるから、これらが調合されて2液になっていれば、たしかに便利だ。湿板がぐっと身近になる。
 おまけに立派な指導書がいくつもあって、けっこう高いらしいが、購入者は著者に質問することができて、技術的な細部を教えてもらえるのだという。また、ネットでも動画のYouTubeで実際を見せるものがある。動く絵だとさらにわかりやすい。
 現像液はキットの他に日本で調達できるものがあり、強い現像で肉厚にすればプリントに、薄くすればアンブロタイプになる。定着液は普通のハイポだが、湿板は銀の量が多いので、早くダメになるそうだ。写真は、田村さんがキットを使って撮った最初の1枚だ。アンブロタイプではなくプリント。ちょっとムラがあるが、初めてにしては見事。おまけに、感度はISO 6 くらい。現像で10くらいは出せるという。それなら初期の乾板と大差ない。「進歩したコロジオンです」という。
 湿板の泣き所は、現代では持ち歩きが難しいことだ。カメラのすぐ脇で湿板を整え、撮影してただちに現像しないといけないのだから、どうしたって暗室から離れられない。昔の人は、暗室用の簡易テントを持ち歩いて撮っていたのだが、いまテントなんかない。
 マシュー・ブレイディーは、馬車を仕立てて北軍に従軍し、6000枚もの湿板を残している。写真師は他にも大勢いたし、南軍の側にもいた。それらの膨大な記録が、「南北戦争=湿板写真」という、アメリカ人の意識のもとになった。前述の「再現派」は、先祖が北であれ南であれ、わざわざ湿板を撮ることで、アメリカ人を体感していたのであろう。
◆やっぱりアメリカ人
 感心するのは、彼らがいずれもフィールドに出て撮っていることである。何らかの形で面倒な「暗室」を持ち歩いている。まあ車社会だから、みんなで連れ立って“関ヶ原”へ乗り込んで、昔の格好をしてお祭り気分で記念写真を撮る。暗室は車で‥‥といったところだろう。
 なかには、昔ながらの幌馬車を仕立てて、自分も昔の格好をして写ったりしてるヤツもいるからややこしい。古い写真かと思ったら、「©2005」なんて書いてあったり。それでも、薬品処理だけはやらないといけない。新しいコロジオンのキットが大活躍していることだろう。南北戦争以外でも、海岸や町の中にまでフィールドが広がっている。まさにアメリカ人のエネルギーだ。
 あらためて、それら「湿板写真」のサイトを見ていたら、南北戦争の中からすばらしい「本物」が見つかった。ブレイディーが、戦闘で落ちてしまった鉄橋の対岸にいる南軍の兵士たちを撮ったものだ。見事な望遠撮影である。
 説明によると、フレデリックスバーグの激戦(1862年12月)で、大敗した北軍が負傷者を収容するために申し入れた停戦の間に撮ったものだ。どうやって意思を伝えたのか、南軍の兵士たちは、明らかにブレイディーのカメラに向かってポーズをとっている(あらかた動いてしまっているが‥‥)。左の建物の窓からは、大砲がのぞいている。ピントのすごさ。完璧な構図。
 むろん湿板だから、ブレイディーが暗室のテントで湿板を用意する間、兵士たちはじっと待っていたに違いない。そしてブレイディーの合図にキッと身構えるーーなんと奇妙な光景だったことか。そうした状況を別としても、この写りの凄さはどうだ。「いま撮れるか?」といわれても、「参った」というしかない。
                       ◇ 
 ダゲレオタイプや湿板写真のピントのよさについて、田村さんが面白いことをいっていた。赤い光に感光しないから、収差の大きい赤のズレがカットされ、シャープで抜けがよくなるのだと。補正の行き届いた現代のレンズで湿板を撮ると、かえって絵が汚くなるので、アメリカでいま湿板を主導している人たちは、わざわざ古いレンズで撮る人が多いのだそうだ。
 レンズの不備を、感剤が補っていたとはーーそんなこと考えても見なかった。ひとつ試してみるか。なにしろ、古いがらくたレンズは売るほどあるんだから‥‥。