デジタルとハサミは使いよう

 きょうは大判を離れて、デジタルのありようを考えてみたい。
 Pinterestという名前を経済誌の記事で読んだその日に、facebookの友だちがそれを使っていたので驚いた。自分で撮った写真、ネットで見つけた気に入った写真を、ネット上にピンナップして、だれでも見られるという新しいSNSだ。記事には、とくに女性に人気だとあったが、その友だちも女性である。
 さっそく友人の掲げた写真を突っついてみると、なにしろ世界につながっているのだから、目の覚めるような写真が次々に出てくる。すごいというより、きりがない。なかでひとつ、珍妙な写真が目に止まった。

 海の中に岩峰が突っ立っていて、上に立派なお城がある。岩峰は根元の方が細くなっていて危なっかしいのだが、入り口が穿ってあり、ハシゴがかかって、ボートも浮かんでいる。「どこだ?」と説明を見たら「ダブリン」とある。
 はて、地中海から小アジアあたりでは、ストイックな宗教者が、とんでもない岩山のてっぺんに修道院を作ったりもあるが、アイルランドに? それも海辺だ。とりあえずは面白いからと、facebookへのリンクをつついておいて、探索にかかる。
 見つけたのは、とっくに友人のサイトを離れたどこぞの女性のページだったが、これはオリジナルではなかった。元をたどるとメキシコの男性とわかる。そのページにはいると、あーらら、書き込みがいっぱいだ。曰く「これはダブリンじゃない」「タイではないか?」……すると、当の男性が「sorry」と謝っている。なに?

 さらに読み進むと、「これだろう」というアドレスがある。Wikipediaの記事のアドレスもあった。開いてみると何のことはない、タイのアンダマン海沿いにある奇岩の写真である。これに、ヨーロッパのどこかの館の写真を合成したものだった。奇岩は、映画「007黄金の銃を持つ男」で知られたのだと。あの映画は見ていない。くそったれ、見事にだまされた。
 わかってみると、確かに建物とハシゴやボートのサイズが合ってない。海上の影もおかしい。しかしまあ、見事なワザではある。デジタルの画像処理に慣れた人なら、おそらく鼻歌まじりでできてしまうのだろう。むしろ、陽射しと影の角度が合った建物の写真を見つけ出す方が大変だったろう。
 これはまあ冗談の類いだからいいとして、時にはニュースの顔をしたインチキ写真も珍しくなくなっている。昨年の夏、「韓流」が目に余るというので、フジテレビにデモが押しかけたことがあった。ネット情報で2000人とか4000人とかいうが、なぜか大手メディアは黙殺した。
 これに業を煮やしたのかどうか、“主催者”かデモ参加者が、ニュース風に伝えた中に、フジテレビ本社前が人で埋まっている写真がついた(左)。ところが、たちまち合成写真と見破られて、ほぼ同じ角度からの実際の写真(右)が掲載された。あっという間に化けの皮がはがれた。

 その突っ込みの早いこと。モンタージュと同じ角度の写真を探してくるのも、デジタル世代のワザなのだろう。必要なら動画でも何でもそろえてしまうに違いない。実に素早いし、ある意味痛快ですらある。ネットの情報は玉石混淆だが、生半可なインチキは通らないぞという、ネットだけが持つ優れた機能だ。といって、誰でもできるわけではなかろう。
 よく「デジタル写真は危ない」という人がいるが、それは違う。写真とはもともと危ないメディアなのだ。旧ソ連や中国では、政治家を消したり付け加えたりは当たり前。レーニンと一緒にいたはずのトロツキーが消えていたり、中国の四人組が突然いなくなったりなんぞ、朝メシ前だった。
 ナチスから始まりスターリンが多用したといわれるが、戦時中の日本でも、謀略誌の「NIPPON」や「FRONT」は盛大にモンタージュを使った。木村伊兵衛や浜谷浩がやっていたのだから、レベルの高さに連合軍も注目したほどだった。新聞でも専門家がいて、エアブラシで大いに描いた。
 デジタルは、これがうんと簡単にできるようになっただけのことだ。むろん、だれでもというわけではなかろうが、ワザといえるほどではあるまい。写真サイトのphotonetでは、もうずいぶん前から加工写真は立派な市民権を持っていて、それが時にはアートとして扱われていた。要するに「別もの」だと割り切っていた。
 ネットのサイトだから、どのみち写真は100%デジタル(元がフィルムでも)である。かつては「加工したか(manipulated)?」という問いに「yes」「no」をチェックしていたのが、完全に形骸化した。もはやだれも答えていない。絵画のような作り写真が大きなカテゴリーになった。写真はすでにそこまでいっている。(左の2枚はphotonetの「今週のベスト」から。ともに元は普通の写真だが、不要なものを消し、色を整えているのは明らか。右はネットの冗談写真。写真はバカバカしいが、何気ないワザが空恐ろしい)

 デジタル写真では、いまや簡単な合成や修正はカメラの中でできる。コントラストの強い絵柄では、カメラが勝手に適正露出部分を集めた絵を合成してしまう(HDR)。フィルムでは絶対に撮れない絵で、その機能はiPhoneにまでついているのだから恐れ入る。
 Photoshopのバージョンアップにしても、付け加わる機能の大半は、画像処理といえば聞こえがいいが、要するにインチキのすすめである。要らないものを消す。切り貼り。画像の合成。色を変える。シャープにする。ボケを作る。ペイントワーク……かつては職人ワザであったつなぎ写真なぞ、ワンタッチでできてしまう。
 デジタルがとりわけ強いのが、光量の少ない夜景だ。さきごろNational Geographicの「旅行写真」のベストに選ばれた画像にはうなった。「星空ウォッチング」という写真で、雪の上に寝転んで空を見上げている男とテント、バックには湖と満点の星空がくっきりと写っていた。超広角レンズで夜景をカラーで、かくもシャープに撮れるとは。しかもこれ、動画のひとコマなのであった。参ったというしかない。
 「記録装置としてのフィルムの時代は終わった」が実感である。ちょうど、銀座のリコー・ギャラリーでやっていた「マグナム コンタクトシート展」を見た。コンタクトだから、同じフィルムの前後の失敗作も見える。なんとまあ、真っ正直に律儀に撮っていることか。そのひとコマのために命まで張っているのである。
 この様子をネットで伝えたら、ひとりが「デジタルではできないことですね」と書き込んでいた。その通り。ペケは即座に消去されて、撮影の過程だってたどることができまい。おまけに、photoshopでいじくりまわせば、オリジナルがどれかすら、わからないかも知れない。
 むろん、現場にいなければ写真は撮れない。こればかりはデジタルになっても変わらない。ただ、作業は楽になった。押せば写る。へっぽこアマでも、日に500枚だ1000枚だと撮れば、「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」である。一度写ってしまえば、あとはデジタルでどうにでもなる。
 そうしたらまた、別の友人がfacebookに妙なものを載せていた。富士山の傘雲が5重になっている。「エーッ」である。たちまち、善男善女の書き込みが殺到していたが、こちとら「ダブリン」でだまされているから、疑り深い。注意深くたどっていったら、オリジナルがちゃんと見えるようになっていた。だから、ジョークだとわかる。あはは、パチパチ、座布団3枚‥‥。

 元の傘はひとつだけだった。いや、これ自体も素晴らしい写真である。本人がモンタージュなんかするはずがないから、「5重」は別人が勝手にやったに決まっている。だがおかしなことに、「5重」を見たあとだと、オリジナルがなんとも平凡に見えてしまう。これは怖い。
 かつて訴訟沙汰があった。マッド・アマノが、白川義員の山岳写真にモンタージュしたパロディーが訴えられた。あのパロディーは傑作だった。立山かどこかの大斜面をスキーヤーが滑っている写真で、尾根の上に巨大なタイヤがのぞいていた。タイヤの広告ではなかったか。
 ネットで探してみたが、さすがに訴訟になったものだから出ていない。マッドは不用意だった。了解なしでやるには、白川も写真も有名過ぎたのである。だが、いまネットにあふれているものはどうだ。
 前掲の富士山、奇岩の写真、お城の写真‥‥みなネットからの無断拝借だろう。多くは、オリジナルが何であったかすら話題にならない。ネットに載せることは、即ち了解済みということになるのか。
 あらためて、写真て何なんだ、と思う。われわれは間違いなく、新たな地平に踏み込んでしまった。もう後戻りはできないのだ。写真を面白くするのも、危ないオモチャにするのも、われわれ次第。バカとハサミは使いようってことだ。
 最後にひとつ、ネットにあった冗談写真をお見せしよう。本当に笑えるのは本物だけなんだということがよくわかる1枚だ。まさかこれ、合成じゃないよな?