見る人か撮る人か

 東京都写真美術館で写真展「機械の眼 カメラとレンズ」の内覧会があった。学芸員が作品を解説してくれる。友の会の催しだが、いつも盛会である。なかで女性がデジカメで撮っていたので、私も1枚撮った。と、その女性が「撮影禁止です」という。記録を撮っていた東写美の職員だった。
 「はい、はい」といっておけばよかったのだが、写ったデジタル画像がいい感じだったので、女性に見せた。すると女性は御注進に及んで、内覧会の担当という人が「画像を消去してください」という。おいおい、これはまた、話がひとつ違うだろうと、これでキレた。(東写美は好きです。友人と出会う場でもある。写真は本文と関係なし)
◆展覧会はフォトジェニック
 私が撮ったのは、会場の雰囲気である。学芸員金子隆一さんが気持ち良さそうに話している。その空気だ。だから、「金子さんが嫌だというなら消すが」と断った。しかも、キレていたから、日頃の持論をぶつけた。
 「そもそも写真美術館で撮影禁止はおかしくないか?」。日本ではごく一部の例外をのぞいて、美術展でもなんでも概ね「撮影禁止」だ。しかし、なぜ?と問いつめると、理由なんかないのである。「三脚禁止」もしかり。
 現にルーブルでも大英博物館でもメトロポリタンでも、撮影は自由(フラッシュは禁止)である。「モナリザの前で記念写真が撮れるんですよ」という現実に、だれも反論はできまい。(右はメトロポリタン、ルノワールの前で)
 しかし、東写美の関心は展示されている作品にあった。ひとことでいえば「著作権」と「悪用される」というのである。頼りないデジタル画面の片隅に写っている、なかばブレたような作品を、どう悪用できるのか。悪用の前例はあるのか。あるはずがなかろう。
 たとえもろに作品を写したとしても、デジカメで撮ったものがまともに使えるはずがない。写真展のパンフに載っている写真の方がよほど確かである。また展覧会の様子をネットに載せれば、むしろ宣伝になるではないか。それをしも「悪用」というか。
 私が展覧会の撮影にこだわるのは、展覧会が最高にフォトジェニックな空間だからである。ルーブルやオルセーで、世に知られた名画を前に、物思いにふける人、語らう人たち、あるいは名画の前で記念写真を撮る人たちですら、私には興味のつきない被写体である。主役は人間だが、背後に有名な作品が写っていればさらに面白い。
◆いつももめることにしている
 しばらく前、ドワノーだったかアーウィットだったか、日本橋三越であった展覧会が実にいい雰囲気だった。大きな写真の前にベンチが飾りに置かれていて、歩き疲れたおばあさんが2人おしゃべりしている。写真を背にしているから、一緒に撮れば最高の絵だ。
 三越は「撮影禁止」ではやたらうるさい店だから、こちらも警備員の目を盗んでこっそりカメラをセット(目測)して、やおら振り向いたら、もうおばあさんはいなかった。いまもって残念である。作者も手を叩いて喜んでくれたに違いない。まかり間違っても「著作権」などいい出すまい。
 三越のベンチは、素晴らしい設定だった。店内で買い物をした普通の人たちが足を運ぶのだ。東写美と違って、みんな遠慮なくおしゃべりしながらである。東写美は、美術館が本来もっているはずの、こうした知的で刺激的でかつ庶民的な空間の役割を誤解しているのではないか。「著作権」だけを守るのなら、倉庫の管理人と変わらない。(ルーブルジェリコの大作の前)
 「撮影禁止」といわれるたびに、私は意図的にもめることにしている。江戸東京博物館、日本カメラ博物館、日比谷図書館、JR本社‥‥今回が三越なら私も引き下がっただろう。しかし東写美なのだ。世界の写真を見せて、写真文化をリードしている日本の核ではないか。
 私のショットで「被写体」になった金子さんは、さすがに「肖像権」なぞ問題にしなかった。が、「築地仁さんの写真が」という。私のいうことにも、「欧米の美術館(の撮影自由)はうらやましい。でも日本ではカベがある。著作権にうるさいのは写真家なのです」という。
 しかし結局最後に、「写真は公表しないでください」といった。あくまで「築地仁さんの著作権」である。しかし公表できない写真なんて、写真ではない。する、しないは撮ったものが決める。写真とはそういうものであろう。

◆この方がよっぽど失礼
 なれば、築地さんの写真を潰してしまえばいいのか、と手を加えたのが左の写真だ(築地さん、お許しあれ)。この方がよっぽど築地さんに対して失礼だろう。こんな変哲もないスナップに半欠けで写った写真に、築地さんが「著作権」を主張するとでもいうのか。
 写真で欧米と日本との最大の違いは、写真と一般の人との距離である。欧米では近い。写真は空気のように身近かで、前述の三越の雰囲気でごく普通の人が写真展に足を運ぶ。しかし日本では大きなミゾがある。 日本製カメラが世界を席巻し、写真が身の回りにあふれ返っているこの国で、美術館・博物館が、さほどポピュラーでないのはなぜか。写真雑誌すら満足に維持できないのはなぜか。ミゾを作っているのはだれか。それはまた、「撮影禁止」を打ち破れない理由とつながっているはずである。
 今回はさらに「消してください」というのがあった。デジタル時代の新しい現実だ。もしこれがフィルムカメラだったら、「いけません」「はい」でそれっきりのはずが、なまじ結果が見えて、消去もできるから、一歩踏み込んできた。何か勘違いをしてないか。
 たとえ禁止の場所だろうとなんだろうと、ひとたびシャッターを押してしまえば、それは作品だ。「肖像権」以外では、「消せ」という権利はだれにもあるまい。素人には著作権はないというのか。記録写真なんて、多くは禁止の場所で撮られている。それがひとたび作品として美術館に収まると撮影禁止?
◆写真はもともと危ういもの
 このすぐ後だったが、操上和美さんの「時のポートレイト」の内覧会があった。驚いたことに、ご本人が現れて解説した。作品のほとんどは心象風景である。もし同じようなものを私が撮ったら(作ったら)、間違いなくクズかご行きというややこしい趣だから、学芸員では説明しきれなかったのだろう。
 それ自体は面白かったのだが、実はそれ以上に、操上さんが作品を背に話している絵が最高だった。そういってご本人に「撮ってもいいですか」と聞いたら、おそらくOKだったと思う。写真家の多くは、自分に向けられたレンズには目ざといが、撮られるのも大好きである。(普通の写真展に撮影禁止はない)
 本人を撮るというのに、まさか背景にある写真(ピンぼけ)の著作権なぞいい出すはずがなかろう。だが、前回もめた担当者がすぐわきにいる。当方は耳が遠くて通常の会話ができない。ごたついたら、内覧会をぶち壊しかねないので、あきらめた。
 もう四半世紀も前だが、ジュネーブで名画の贋作の展覧会というのがあって、大いに人気をはくしたことがある。本物とわずかに大きさを変える。これが贋作づくりの矜持だといっていた。が、写真の世界では、これは通用しない。写真とはもともと危ないメディアなのだ。
 ソ連が政治宣伝のために始めたモンタージュという手法は、ナチや旧日本軍(木村伊兵衛のFRONT)、さらには戦後の中国にも受け継がれ、多くは事実をひん曲げる手段に使われた。また、有名な写真を無断で細工して、CMに使って裁判になった例もある。これは悪意がからむ話だが、悪意がなくても十分に危ういのである。
◆写真家が饒舌な訳
 だれでも覚えがあるだろう。同じ場所で同じような機材で同じ時にシャッターを押せば、ほとんど同じ写真が撮れる。そこでいいの、悪いのとなれば、プロが撮ったものが必ずしもいい訳ではない。間違っていい結果というのだってある。写真とはそういうものだ。
 平泳ぎの北島康介が、ロンドン五輪行きを決めた4月の日本選手権100㍍で、日本新を出してガッツポーズしている写真が、翌朝の在京スポーツ新聞5紙の1面トップに載った。テレビのワイドが紙面を並べていたが、壮観だった。(左からサンスポ、スポニチ・共同、デーリー、報知、日刊)

  
 はじめは同じ写真かと思った。が、そんなはずはなかろうとHPで画像を詳細に見ると、全部別ものだった。ほぼ同じ画角で同じ瞬間、何百分の1秒がそろったのだ。ビデオで見るとポーズはほんの一瞬なので、少なくとも5人のカメラマンは「読んでいた」。しかも、5人の編集者が同じ写真を選んだわけだ。針のアナを通すような偶然の一致。見事なプロのワザである。
 写真家はこの危うさを知っている。同じ写真は絶対に撮れないにしても、似た写真、すぐ隣くらいの写真はいくらも可能なのだ。だからだろう。作品を語って写真家は常に饒舌である。時には形而上学的な言辞まで弄する。
 写真であれ何であれ視覚に訴える芸術は、パッと見た時にいいか悪いか、好きか嫌いか、一瞬のものである。作者の「つもり」なんぞどうでもいい。後から聞いても、「ああ、そうですか」と、そんなものでしかない。しかし彼らは語る。メディアとしての危うさが不安なのだろうと、私は勝手に思っている。
 その点で絵画は潔い。ひとたび作者の手を離れた作品は、いわれるまま、まな板の鯉である。画家は多くを語らない。まあ、大家はいろいろいうことはあっても、写真家のように小難しいことはいわない。絵画では、同じものなぞ絶対にないからである。(先日「若き日のモナリザ」が本物と鑑定されたという話があった。模写に決まっているではないか。鑑定者は、画家の心を知らない)

◆自分でクビを締めている
 とはいえ、傑作であろうとなかろうと、本人ですら二度と撮れない写真というのは間違いなくある。それこそが作品。だれにも撮れないもの。であれば、複写するというのならいざ知らず、展覧会に並んだ作品で著作権を云々するというのも変な話ではないか。悪用だなんて、いったい何ができるというのか。
 「欧米はうらやましい」といったのも、その場しのぎだったろう。当の美術館の人たちは、会場を撮ろうとは思わない。写真展そのものがフォトジェニックだなどと思ってもいないのだから、「撮影禁止」をなんとかしようとはしない。一般の人たちも「撮影禁止」を当たり前と思っている。(欧米ではこれが当たり前。この赤ちゃんは必ずや、展覧会に足を運ぶ大人に育つだろう。パリ・ピカソ美術館で)
 つまり現状はいつまで経っても変わらない。普通の人たちが子どもの手を引いて、あるいは赤ちゃんをかかえて、気軽にでかけてくる雰囲気も、未来永劫生まれないだろう。そのくせ、入場者を増やそうというかけ声はよく聞く。自分でクビをしめていることを、少しもわかっていないのである。
 そこへ友人が妙なメールをよこした。大阪の中古カメラ市の一郭で、先年亡くなった粟野幹男氏のコレクションの展示映像がYouTubeで見られるという。ただし、会場は撮影禁止なのを盗み撮りしたものだから、特定のアドレスでだけ見られるようにしてある。「あまりおおっぴらにしないように」とあった。
 さすがに盗み撮りでは詳細には見えなかったが、撮影者の音声解説が入っていたから、見どころはよくわかる。しかし、粟野氏が心血をそそいだコレクションだ。せっかく並べてあるのに「撮影禁止」というのがどうも解せない。どうせ粟野氏の意志ではあるまい。
 デパートのせいなのか、出展をアレンジした人たちの余計なお世話か。どのみち、写真を撮ることに興味のない人たちが決めたことだろう。それも深く考えもせずに。これもひと続きの物語なのである。

◆撮るか撮らないか
 写真が嫌いな人は少ないだろうが、撮ることに気のない人というのは案外多い。カメラのコレクターにもいるし、カメラメーカーにも、カメラ博物館や写真美術館にもいる。これがいま、デジカメとスマホ、ケータイの普及で変わってきた。子どもからお年寄りまで、作品に垣根を設けずに並べてみせる試みも、富士フィルムなどからはじまっている。写真の裾野が広がるのは、大いに結構なことだ。(写真展で遊ぶこども。展覧会はこうでなくちゃ)
 しかし、これが日本の写真界を変えることになるとは到底思えない。東写美の話に戻ると、「画像を消去してください」といったとたんに、写真を好きな人同士の連帯は消えてしまう。これを隔てているのは、結局撮ろうと思う人か思わない人かである。
 彼らが守ろうとしているのは、何なのか。ひょっとして権威なのかもしれない。だとしたら、当方はゲリラ撮影を続けるしかないではないか。なんとも不毛なことである。