豪快! 大判を目測で撮る

 「フォーカス」でならしたカメラマンの福田文昭さんから案内がきて、「藤村一郎さんを囲む会」をやるという。「藤村さん? はて誰だろう?」。聞けば、米通信社のカメラマンとして朝鮮戦争を取材したというのだから、いわば戦後写真の第1世代だ。85歳のいまも現役だという。その方が、昔話しをしてくれるのだと。これは面白そうだ。

 福田さんとのやりとりで、藤村さんがスピグラで撮っていたとわかったので、ちょうどグラフライトをいじくりまわしていたのを幸い、スピグラでフラッシュを焚いて驚かしてやろうという気になった。団塊の世代くらいからはストロボだから、フラッシュ・バルブなんて知らない。福田さんに伝えると、藤村さんも「懐かしい」と喜んでいるという。
 グラフィックはとうに手放してしまっていたので、城靖治さんに声をかけたら、ちょうど空いてますと、わざわざスピグラをかついできてくださった。これが超がつくほどの美品の、しかもオリーブ色のミリタリーときたもんだ。間がいいことに、わたしが持っているグラフライトがまたミリタリー。こんな見事な組み合わせは、いま日本中探したってあるかどうか。
◆占領下の日本の空気を堪能
 それはともかく、暮れの日曜午後、浅草・仲見世からちょいと横に入った雷門区民館に20数人が集まった。若い人もいたが大半が中高年で、ある程度昔話も通じる世代だ。藤村さんのお話は、占領下の日本の空気を伝えてなかなか面白かった。(トーク中の藤村一郎さん・右と福田文昭さん。下のIDカードとも福田徳郎氏撮影)

 藤村さんは、日本橋の生まれ。母方がお茶屋さんで、父方が宮内省御用達のなんとやらで、その関係で?徴兵されることもなく、終戦のときに22歳。慶応義塾の英語塾で学んでいたので、英語力を生かして外人記者クラブのボーイになった。この縁でライフの支局長やマッカーサーの専用機のパイロットのハウスボーイなどをやったあと、INS通信のカメラマンになった。
 給料は300ドルというから、当時を知る人は腰を抜かすほどの高給である。1ドル=360円の時代だ。それより10数年もあとの、わたしの初任給が2万8000円。これでも高い方だったのだから。
 その頃の写真界は、土門拳らのレアリズム写真の全盛期で、写真雑誌が続々と復刊され、「週刊サンニュース」も生まれた。流れを主導したのは、ライフをはじめとする外国通信社の報道カメラマンたちで、田村町にあったNHKの2階にこれらが集まっていた。藤村さんは、カール・マイダンスだの、木村伊兵衛、三木淳、田沼武能らと同じ場所で仕事をしていたのだった。
 そして昭和26年、藤村さんは朝鮮戦争の取材に出された。それも、「大竹省二さんが行くのを嫌がったので、わたしになった」というから面白い。現物をみせてくれたが、米軍と連合国軍総司令部GHQ)が出した2枚のIDカードで、立川から朝鮮のどこへでも飛んでいけた。(モノクロ写真は、カール・マイダンス、1986年11月横浜で、松崎正浩氏撮影)
 すでに戦線は38度線で膠着状態にあったから、激しい戦闘場面には出くわさなかったらしいが、休戦協定までのほぼ1年間、現地から記事と写真を送り続けた。写真は現像して密着プリントをつくり、新聞係の検閲を受けた。国連軍に不利な状況や死体の写真はダメだったという。機材はスピグラだけ。もともと父親がコンタックスや暗箱をもっていたので、写真の技術はもっていたのだそうだ。
 藤村さんはその後、別の通信社やUSニューズ&ワールドレポートなどで働いたあと、ライフの専属になった田沼武能氏の事務所に入ったが、「スピグラばかりで35ミリカメラには縁がなかった」というから、これもまた珍しい。しかし、持ち込んだスピグラを、「懐かしいな」といいながら扱う様はさすが手慣れたもので、それだけでも第1世代の貫禄十分だった。お話は2時間の予定が4時間近くにもなったが、終わって記念写真を撮りましょうとなった。
◆スピグラで「ごめんなさい」
 さあ、スピグラだ。まずはフラッシュバルブである。しばらく前に、バルブの接触不良で失敗していたので、今回は入念に接点を掃除してテストも万全だった。フラッシュの光量はへなちょこストロボなど問題にならないほど強力だから、絞りをぐっと絞って目測によるピントのズレをカバーする。これが正しいスピグラの撮り方、あとで述べる「ウィジーの方式」である。
 とはいえ、いきなり手にしたスピグラでの目測撮影はいささか危うい。というのは、レンズによって無限遠の位置が微妙に変わるからである。今回も本来ついていたオプターのシンクロが不調だったので、テッサーに変えていた。藤村さんの話を聞きながら、少しは調整したつもりだったが、まだ不安があった。最後は「写ってなかったらごめんなさい」である。
 結果はご覧の通り。最前列にはなんとかピントが合っているが、後ろの列は悲惨なことになった。これで絞りはF11である。大判だからまだ形は見てとれるが、ネガをルーペでのぞくとボケボケだ。大判レンズは本当に難しい。まさに「ごめんなさい」だ。
 大判撮影でいちばん面倒なのは、ピント合わせである。ピントグラスで合わせるのだから、三脚が必要になり、冠布をかぶってルーペでのぞく。大判レンズの被写界深度は紙のように薄いから、こればかりは厳密にやらないといけない。しかも、開放で合わせておいて、いざ絞り込むとピンとが動く。大判の失敗の大半はこれである。
 「ピントグラスは嫌だ。何とか簡単にできないか」という要望に応えたのが、1893年ロチェスター・オプチカル社が出したプリモだった。ボックス型の前板を開いて蛇腹を引き出し、レンズ位置を無限遠の目盛りに合わせる。そこで被写体までの距離を目測して、距離の目盛りに合わせて蛇腹を繰り出すと、風景や記念写真程度ならまあまあピントが合う。近接のポートレートはともかく、普通の撮影では見事ピントグラスから解放されたのである。
 これは一種の革命だった。レンズはよく写るRRだし、シャッターは頼りないエアだったが、戸外で絞り込んで撮る分には目測で手持ち撮影もできるし、ピントグラスもついているから、三脚を立てて厳密なピント合わせもできる。後のスピグラのコンセプトそのものである。アメリカがしぶといのは、このあたりだ。アイデアまでが丈夫で長持ち。
◆大判王国の始まり
 プリモはまた、黒皮貼りの外装に赤蛇腹、チェリーやマホガニーの木部を美しく塗り立てたおしゃれなデザインだったから、アマチュアでも手軽に写真を撮るようになった。ロチェスターのメーカーは競ってプリモ・タイプを作って、写真の裾野は爆発的に広がったのである。

(様々なプリモタイプ。左からCentury、Korona, Seroco。どれも4x5だがコンパクトだ。革のケースがサイクリング用のセット=いずれも城靖治さん所蔵)
 もともと自転車屋だったフォルマー&シュィング社がこれに目をつけて、自転車の脇に取り付けられるようなケースに入ったセットを考案して「サイクル・グラフィック・カメラ」として売り出した。軽便三脚もくっつけて「サイクリングのお供に」というのが大当たり。このアイデアに各メーカーも飛びついてブームになり、ついにはコダックまでが参入する。といってもコダックの場合はメーカーを買収してしまうのだが‥‥。
 フォルマー&シュィングははじめ、カメラは他社の製品だったのが、やがて自分でも作り始めてとうとうカメラメーカーになってしまう。サイクルカメラのあと作ったのが、一眼レフのグラフレックス(写真右)である。これはピントグラスを見ながらシャッターが切れるので、ピントが正確で素早く撮れる。これも革命であった。アイデアはイギリスの方が先だったが、のちにシャッターを簡単に作ったのがミソで、故障が少ないし安い。軍用と報道用に大いに使われて、60年も続くロングセラーになる。
 フォルマー&シュィングは一時コダックの傘下に入り、ここでスタジオ用のビューカメラなどを作るが、この間に、プリモタイプを発展させて一眼のグラフレックスと同じシャッターをつけたのが、スピードグラフィックである。これがまた軍用、報道用の主力になって、1970年代まで続くロングセラーになるのである。
 大判写真は、どこの国でもスタジオカメラが中心になる。とくに小型志向の強いヨーロッパでは、大判そのものがすたれてしまうのだが、アメリカだけはスタジオ用のほかに、大判カメラを持ち歩いて撮るという流れがあった。前にも書いたように、ポパイのアメリカ人はでかいことを何とも思わない。これが、アメリカが大判王国となった所以である。
 グラフレックスとスピグラのいちばんの特徴は、持ち歩きの良さだ。扱いに慣れれば、大判なのにまるで小型カメラのように素早く正確に撮れる。また、そのために作られたカメラである。これらが大活躍したのが、大恐慌のあと、農業安定局 (FSA)がおこなった農村の惨状を記録するプロジェクトだった。

 ニューディール政策のPRでもあったが、これに、ウォーカー・エヴァンズ、ドロシー・ラングら社会派のカメラマンが大量動員された。戦後東京にいたカール・マイダンスもいた。ちょうどライフの創刊などとも重なって、ドキュメンタリー写真の金字塔を打ち立てる。なかでも、ラングの「移民の母」が有名だ。彼女が使ったのは、4x5の一眼グラフレックスDだった。(「Migrant Mother 1936」、Library of Congressから)
◆これぞスピグラの醍醐味
 一眼レフに較べるとスピグラの目測ピントはややおぼつかないが、機動性ははるかに高い。それを「こうやって使うんだ」と実証して見せたのが、ニューヨークの犯罪シーンを撮りまくった「ウィジー」こと、アーサー・フェリグである。
 彼は絶えず警察無線を聞いていて、事件が起こると真っ先に現場に駆けつけた。時には警察官より早かったから、それこそ生々しい現場をばっちり撮った。銃撃や交通事故で路上に転がる死体、燃え盛る火事現場、犯罪すれすれの夜の生活者たちから、時には上流階級やスターたちのスナップまで‥‥いまでいうパパラッチである。

 彼は夜をものともせず、目測で絞りをぐっと絞っておいて、どでかいフラッシュをボンボン焚いた。犯罪現場でも劇場でもナイトクラブでも、すべてこれだった。荒っぽいことこの上なし。芸術写真とは無縁。あくまでもレアリズム。(「Weegee's World」から)
 1945年に出した写真集「裸の町」は、スピグラだから撮れた写真ばかりで、それがこのカメラの撮り方なのだと納得させるに十分だった。やがて、事件の現場写真はもちろん、政治家や映画スターの記者会見までみなこの撮り方になった。
 日本には進駐軍と従軍記者が持ち込んだのが最初だった。4x5のフィルムも初めてである。それまでの「アンゴー」や「パルモス」とは全く違う合理性と使い勝手のよさで、日本のプレスカメラはあっという間にスピグラに切り替わった。当時の機種はウィジーが使ったのと同じ「アニバーサリー」で、むろんウィジーの撮り方も伝わった。
 目測で大判を撮るくらい楽しいことはない。やってみればわかる。必ず病みつきになること請け合いだ。といっても、これがなかなかできるものではない。軍用か報道か、あるいは大金持ちか、とにかくフィルム代と現像代を心配しないですむ人にしかできないからだ。(下の写真は、1945年8 月30 日、厚木飛行場に着いたマッカーサーと幕僚たち。むろんスピグラの目測撮影だ。構図が決まりすぎていてやらせくさいが、一発勝負の大判時代は当たり前だった)

 実際この楽しさを味わうことができたのは、報道関係と藤村さんのような立場の人たちだけであった。逆に、早くから小型カメラで撮っていた木村伊兵衛土門拳といった人たちは、この味を知らなかったかもしれない。ライカコンタックスとは別世界のカメラである。
 60年代の半ばまで、新聞のカメラマンが入社してまず持たされるのはスピグラだった。そして最初にやるのが目測の修練だったという。まずはウィジーになるのである。しかし、目測以外にも失敗のタネが多いカメラだから、現像してみたら何も写ってなくて真っ青になったなんて、だれしも一度や二度は経験したものらしい。
 だから、報道現場では「必ず二枚撮る」というのが鉄則で、それは、失敗した他社の仲間に融通するためであった。自分が失敗したときにも助けてもらえるという、戦前から続く暗黙のルールである。大判写真の時代はおおらかなものだった。
 しかし、いまそんな温かさはかけらもない。先の酒井法子市橋達也の取材で見る通り、殺伐とした押し合いへし合いばかりである。70年代にスピグラが消えると同時に、プレスの連帯感もまた消えたのである。
 その温かさを実感するためにも、ウィジーの撮り方を一度試してみることをお薦めする。目測、絞り込み、フラッシュ、ドカン。この豪快な荒っぽさこそが、スピグラの醍醐味である。小型カメラでは絶対に味わえない爽快感。もし失敗しても、なに、アマチュアは「ごめんなさい」ですむことである。