光り物症候群

 なぜそう思ったのかは、よくわからない。昨年暮れ、自由ヶ丘駅前のクリスマスツリーの点灯式で、友人のゴスペル・グループが歌うと聞いたとき、反射的に「あ、これはバルブだ」と思った。
 フラッシュバルブ(閃光電球)はストロボとはけた違いの光量で遠くまで届くから、戸外で大人数を撮るには最適だ。が、燃焼時間が長いから動くものには向かない。流れてしまう。クラシックならまだしも、ゴスペルといえばジャズの元祖みたいなものだろう。激しく動くんじゃないか?

 ではストロボにするか。いや、きれいに撮るんならデジカメでいい。わざわざ大判で撮るんだから、雰囲気をつかまえたい。それにはバルブだ。ちゃんと写るかどうかもわからないし、半分は「驚かしてやれ」というのがあった。フラッシュを焚くこと自体が、いまの時代では動機不純なのである。
◆甘く見た報い
 とはいえ、大判でフラッシュを焚くなんて滅多にない。暗いところでもなんとか自然のまま撮ろうとする方だから、ごくたまに、光量を補うためにストロボを焚く程度。フラッシュバルブなんて、もう何年も使ってなかった。前回はたしか、室内での大人数の記念写真だった。
 そんなわけで、久々にグラフライトのほこりをはらって、適当なフラッシュバルブを選んででかけていった。カメラは5x7のフィールドである。困ったのは、テスト球がみつからなかったこと。本当に光るかどうかがわからない。
 時間があったので、藤原写真場をのぞいてみた。藤原洋平さんは引退したがむろんお元気で、写場の方は若い方が続けていた。看板も、例のアンソニーも巨大レンズもそのままだったが、これらの出番はもうないようだった。(「さらば写真館」参照)
 自由ヶ丘駅前のロータリーのクルマを閉め出して、改札口に面したあたりが会場だった。歌や器楽の演奏がいろいろあって、しんがりがゴスペルである。薄暗くなってちょうどフラッシュには好条件。カメラをセットしているうちに歌い始めた。とたんに「あ、これはダメだ」
 ゴスペルは初めてだったが、とにかく全員が体を小刻みにふるわせながら歌っている。そうだよな。「天使のラブソング」のウーピー・ゴールドバーグ状態である。これじゃ、ストロボでなくちゃぁ無理だ。持ってくればよかった。
 しかしまあ、せっかくだから一発いくか。ところがテスト球がないから確信がもてない。やむなくバルブを一発テストした。が、光らない。「エー!」とあわててあちこちこすったりなめたりしたら、ようやく光った。
 バレルレンズだから、むろん「人間シンクロ」——右手でシャッター、左手でフラッシュである。右手はバルブ(B)の手加減だから、せいぜいが4分の1秒。それ以上早いと、いかに左手と右手でも同調しない恐れがある。スローシャッターだから、動いて写る絵に、さらにフラッシュで動きを上書きというわけだ。もうやけくそである。
 ところが一発目が光らない。「くそったれ」とばかりにフィルムを替え、またあちこちなめまわして、2枚目にようやく光った。もうすっかりやる気をなくしていたが、試しに3枚目、これも光らなかった。電気だから何とかなるだろうと甘く見たのが間違い。上の写真は光ったコマ。何とか顔がわかる。あとの2コマは増感で絵は出てきたが、歌手の顔は判別不能だった。(ディアドルフ5x7、ボワイエ・サフィールB 210/4.5、TX、グラフライト)


◆意地のリベンジは返り討ち
 腹の虫がおさまらないので、テスト球を探したら、東急ハンズに6Vのがあった。グラフライトは4.5Vだから光り方は弱いが、通電だけはなんとかわかる。また、がらくたを引っ掻き回したら、「接点復活剤」なんてのが出てきた。これであちこちをゴシゴシ。これでようやくシンクロコードの状態まで確認ができた。
 前回のスピグラの「目測」は、リベンジの初回だった。目測ははずしたが、フラッシュは完璧。余勢を駆って同じスピグラでビッグサイト骨董ジャンボリーへ出かけた。坂崎幸之助さんのクラシックカメラ店である。みな「わかる人」だから、今度こそは「脅しに」とでっかい玉までもっていった。ちゃんと準備すればスピグラはいまも完璧に動く。手を抜くからいけないのである。(骨董ジャンボリーの坂崎さん。スピードグラフィック4x5、オプター127/4.5、フジ100、グラフライト)
 驚いたことに、そのフラッシュの瞬間を、デジカメで同調させて撮った人がいた。いまのデジカメはシャッターにタイムラグがある。私が「ワン、ツー……」と声に出してカウントしたのをうまく測って切ったらしい。バルブがいかに燃焼時間が長いとはいえ、まあなんという手練れ。殴り込みが、見事に返り討ちにあったような気分だった。(撮影:高木靖夫さん)
 昭和30年代の終わりころまで、プロ、アマを問わずフラッシュガンとバルブはカメラマンの必携だった。しかしこれが厄介なものだった。ガイドナンバーというものがあって、それをもとに絞り値と距離との掛け算か割り算をしないと、適正な露出が出ない。おまけに光らないこともあって、常に失敗と背中合わせだった。


 だから、オートストロボの出現は夢のような話だった。適正な光量をストロボが勝手に計算するのだから。それでも、ASA感度の設定と距離の概念を常に意識していないと、失敗はついて回った。それがいまや勝手に光る時代になって、カメラ機能の一部になった。そうなるともう、面白くも何ともない。
 「光り物好き」はまあ偏屈の部類だが、これがけっこう多い。仲間では「箱の人」さんという名人がいる。これが大変な手練で、ちょっと見にはがらくたみたいなボックス・カメラを使っては、ライカも真っ青というような絵を撮るのである。おまけに日中の逆光撮影なんかで、ストロボじゃなくてバルブを焚いたりする。なかなかに粋なものである。もっとも、そのすばらしいワザに気づく人は、もうほとんどいないのだが‥‥。(これが日中のフラッシュ。有楽町・交通会館で。ビーコン225、ダブレット70mm、撮影:小池徹さん)


 わたしも一時期、コンバット・グラフィックなんていうフラッシュガンつきの軍用カメラを振り回していたものだから、仲間うちで不要のフラッシュバルブというと、「箱の人」さんかわたしのところへ回ってきたものだ。お陰で、巨大な玉も含めて、死ぬまで撮ってもなくならないくらいはある。(下のイラストと写真)
 といってもわたしの場合は、バシッと焚いて驚かすのが楽しいという口で、人工光を使った写真そのものはあまり好きじゃない。しかし、こういうものは一度火がつくと、しばらくは止まらない。大判は出動自体が少ないから、別に使わなくてもいい場面でも「焚いてみたらどうかな」とか、実用とは無関係な光り物遊びだ。動機不純とはこのことである。
◆日本初のマグネシウム写真
 写真の歴史は、ある意味不可能への挑戦の歴史だ。暗い所で撮るというのもそのひとつ。人工光線では、ナダールがパリのカタコンブ(地下墓地)をアーク灯を使って撮ったのが有名だが、同じ頃ドイツの科学者がマグネシウム閃光粉を考案している。1880年代半ば、感度の高い乾板が一般化したとたんに、こんどは暗闇を撮ろうと考える。こうして光り物は始まったのである。
 これで面白い発見をしたことがある。しばらく前のことだが、明治大学博物館で「ガウランド・日本考古学の父」というユニークな展示があった。ウイリアム・ガウランドは明治の初期、大阪造幣局で貨幣の鋳造を指導したイギリス人技師。仕事の合間に、近畿一円の古墳を大量の乾板写真に残していた。


 大英博物館に100年以上も埋もれていたのを、同館日本部のビクター・ハリス氏と朝日新聞の後藤和雄氏が偶然みつけ、大騒ぎになった。なにしろ仁徳天皇陵の付近には住宅もなく、ほとんどの古墳は禿げ山状態。石室の内部はもちろん、古墳の上から隣の古墳を撮ったり、そうした写真が212枚である。考古学者が興奮するのは無理もない。
 なかに人工光線を使って撮影したものが3枚あった。とくに高槻市の塚原古墳群の石室に立つガウランドの1枚が印象的だ。本来は真っ暗な石室の内部がきれいに写っているだけでなく、ガウランドの目が光っている。最初に見たのは、展覧会より10年も前の新聞紙面でだったが、「人工光だな」と思った記憶がある。
 撮ったのは、アメリカ人のロミン・ヒチコック。元スミソニアン博物館の学芸員で、ガウランドと2人で「カメラ2台で、マグネシウムを使って撮った」と2人ともに記録していた。1888年ころのことだ。
 さあ、謎解きである。ヒチコックの来日が1886年マグネシウムの考案が87年、ガウランドが離日したのが88年なのだ。コダックの乾板は80年からあった。問題はマグネシウムだ。最新のドイツの技術を、東洋の果てでどうやって知ったのか。ガウランドは金属の専門家だから、情報さえ入れば作れたかもしれない。それにしてもギリギリである。
 とにかくわたしはこの写真を、「日本で最初のマグネシウム写真」と断定した。写真と記録が動かぬ証拠だ。当時の日本人が、そんな技術情報を手にできるはずがない。どころか、日本で実際にマグネシウムが写真撮影で使われたのは、それより20年以上も後の明治天皇の御大喪のとき(1912年)なのだ。
 もしガウランドが、人里離れた古墳なんかではなく「二月堂のお水取り」でも撮っていたら、好奇心あふれる日本の写真師たちが黙っているはずがない。ガウランドだって一躍有名人になったと思うのだが、彼は技術を伝えることもなく静かに帰国して、作品は大英博物館で眠ってしまったのだった。つくづく惜しい「歴史のイフ」である。(上が問題のマグネシウム写真。古墳の石室に立つガウランド=後藤和雄氏提供。下は、展覧会での後藤氏・左と中央がハリス氏。ディアドルフ5x7、ランカスターRR、Tmax100、ガウランドに敬意を表して、ガウランドの時代のレンズでストロボで人間シンクロ)
◆フラッシュバルブはびっくり玉
 マグネシウムの閃光粉は、前述の大正元年から始まって戦後まで使われた。60代より上の人なら大方覚えがあるはずだ。結婚式や法事などの記念写真では、町の写真屋さんが出張ってきてマグネシウムをよく焚いた。「シュボッ」という軽い爆発音とともに、閃光が走り原爆みたいなキノコ雲が上がる。むろん右手と左手の人間シンクロ。素人にはできないワザだった。
 わたしも一時、閃光粉を知人から譲り受けて持っていた。「何とか一度」と思いながら、とうとう使うチャンスはなかった。いまどきビルの中で焚こうものなら、火災報知器が鳴ってしまうような代物である。いや、持っているだけでも消防署に届ける必要があるとかないとか、とにかく危ないものだから、結局カメラ博物館行きになった。いまもってちょっと惜しい。
 閃光電球(バルブ)は1930年代から登場したが、マグネシウムとの共存期間は意外と長い。電気で同調させる電球は、シャッターかカメラにシンクロ接点がないと使えないから、中小型カメラが主になった。写真館の大判暗箱とバレルレンズでは、マグネシウム以外になかったが、閃光粉は電球より安かったし、粉の量で光量の調節もできた。


 一方、大判でフラッシュバルブを日常的に使ったのが、前述のスピグラである。このシステムは、フィールドでもスタジオでも使える万能型だった。むろんグラフライト(ガン)単独でも人間シンクロで使えるから、これは大いに便利だ。本体のグラフィックを手放しても、グラフライトを残しているのはそのためである。何年かに一度しか出番がない(その気にならない)のが残念だが‥‥。
 光り物は、昭和40年代に見事にストロボに切り替わった。プロの間では30年代半ばから使われていたが、40年代のオートストロボ(自動調光)の登場で、バルブも何も丸ごと吹き飛んでしまったのである。バルブはかろうじて、「プリントごっこ」で生き延びていたが、これもパソコンの普及でとどめを刺された。
 ただ、ストロボよりバルブがいいという人はいる。小玉はだめだが、大玉や銀紙がはいっているタイプだと影が出にくいというのだ。大きな傘と燃焼時間が長いことで、光が回り込むからだといわれる。骨董ジャンボリーの2枚目の写真は、大玉である。1枚目より軟らかいだろうか。(スピグラ4x5、オプター127/4.5、フジ100、グラフライト。シャッターが10分の1だったので、2枚ともちょっと手ぶれ)
 とはいっても、例えばスタジオ撮影なら、ストロボでも影ができないようにするのがライティングの技術だ。またバルブは本気で焚けば、あっという間になくなってしまう。ストロボと違って、焚いたら終わりなのだから。
 そうなるとやはり、「びっくり球」として遊ぶ以外に道はなさそうである。さて、次はいつその気になるか。これが問題だ。グラフライトは単1乾電池3本。抜き出して置いておくと、何年もたつと必ず置き場所がわからなくなって、毎度新品を買うはめになる。