禁じ手は自由の証

 大判を始める人は普通、ナガオカとかにフジノンやニッコールをつけたりしてスタートするものだ。レンズにはむろんコパルやコンパーのシャッターがついていて、概ね正しい露出が出せる。あとは、何を撮るかだ。そう難しいことではない。
 わたしは少し違った。初めて手にしたのがおんぼろのスピグラだった。40年も前、駆け出しだった新聞の支局にあったものだ。もうニコンFの時代だったから写真部員も滅多に使わなかった。しかし、便利なパックフィルムもあるし、暗室もある。そこで、休日などに持ち出しては、風景や知人を撮ったりしていた。

 目がよかったから、ルーペなしでもピントグラスが見えたし、持ち歩きも苦にならなかったが、結果が出ないのには閉口した。ピントの微妙なずれである。とくに近接のポートレートは全滅に近かった。
(今回の写真はすべて禁じ手。左は最新のもの、東大総合研究博物館での動物の骨の展示)
◆大判を手持ちで撮っていた
 まあ、写真部員を真似て手持ちで撮っていたのだから、当然といえば当然。もし三脚を使っていたら、話は少し違ったかもしれないが、そもそも大判を撮っているという意識すらなかったのだから、仕方がない。
 グラフィックは撮りやすいから、ピント合わせの手間を除けば、マナーはオート以前の35ミリカメラと大差ない。ちょっとでかくてピントが薄いな、くらいの感じでしかなかったのである。だから、持ち場が変わって暗室と縁が切れると、それきりになった。
 再びグラフィックを手にしたのは20年後だった。が、こんどは目的がちょっと違った。どんなレンズでも使えるという点である。35ミリカメラのレンズマウントの制約にうんざりしていたころで、「ああ、昔のカメラはホントに自由だったんだな」と、関心はむしろそちらにあった。

 事実グラフィック(そのときはクラウン)は4x5(インチ、以下同じ)だから、まずどんなレンズでもいけるし、使い勝手もいい。ポラロイドなどを使って、主に老人施設に入っていた両親を撮った。車イスで動かないから撮りやすかったのだ。
 転機はひょんなことからやってきた。パリのカメラ屋で、妙なフランス暗箱を買ってしまったのである。バレルレンズつきで、バックの縦横の変換は蛇腹ごと回転する方式。「こいつぁ面白れぇ」と思ったのが運の尽き。当時は何だかわからなかったが、13x18センチ判の「旅行用暗箱=Chambre de Voyage」というヤツだった。(ジナーになった2台のイギリスカメラ。上がサンダーソン・トロピカル、下が無名フィールド)
◆撮れないカメラが転機になった
 しかし、カメラには撮り枠(フィルムホルダー)がなかったから写真が撮れない。これには弱った。そこへ偶然だが知人がディアドルフの4x5のバックをくれた。なんでそんなものをもっていたのかわからない。が、これをくっつければ撮れる、というので頼んだのが、前にちょっと触れた付け替えだった。フランスカメラが、いとも簡単にディアドルフになった。 
 これはもともと「禁じ手」だ。別にぶっ壊すわけではないが、カメラの本来とは違う使い方になる。クラシックカメラ使いはオリジナルを重んずるから、いかがわしいと嫌う人が多い。しかし、付け替えで見えてきた世界は、大いに開けたものだった。(下はカメラ仲間の忘年会。無名フィールドにジナーバックで)

 アメリカと違って、イギリスも大陸もバックの規格というものがない(偶然合うものはあるが)から、暗箱カメラごとに専用の撮り枠がないと、まず写真は撮れないものだ。ところが、アメリカ規格のスプリングバックをつけてしまえば、すべてアメリカカメラになってしまう。禁じ手から入ると、バックの制約がなくなってしまうのである。
 早い話が、世界中のありとあらゆる暗箱カメラが、ダゲレオタイプだろうと何だろうと、これによってアメリカカメラとして蘇るのである。博物館のカメラも現役に復帰する。以来、暗箱を見る目が変わった。どんな変てこな骨董カメラでも、写真が撮れるカメラとして見るようになった。
 さあこうなると大変だ。木製暗箱で造りがいちばん美しいのはイギリスカメラだが、バックがややこしいから撮りにくい。しかし、アメリカカメラにしてしまえば、カメラの顔はそのままに、アメリカの合理的なバックとフィルムで写真が撮れるのである。しかも木工工作だから、いつでも元に戻せる。
 まず手に入れたのは、サンダーソン・トロピカルの手札だった。これにジナーの4x5バックをつけた。バックの方が大きいのだが、木枠で少し下駄をはかせたらけられなかった。次が無名のハーフサイズのフィールドで、これも同じジナーにした。イギリスの顔をしたジナーが2台である。金属サイボーグのジナー本体で撮るより、なんとなく楽しい。木のぬくもりというヤツだろう。


◆禁じ手から見えてきた世界
 とくにフィールドカメラは、三脚が3本バラバラの木製だから、組み立てているだけで必ず「何だ、何だ」となる。このイギリスの知恵がなかなかのもので、一見頼りなさそうだが実に安定がよく、しかもカメラが回転する。これを見ると、たいていのヤツは仰天する。それが面白くて止まらなくなった。
 レンズ、シャッター、バック、レンズボード、アダプターの類い‥‥発見した機材はどれも、先人の知恵の結晶だ。それなりに合理的なものもあれば、今見ると吹き出しちゃうようなものもある。現物が目の前にあるのだから、これはもう、写真を撮るのとどっちが、というくらいの面白さである。しかも、それらを使ってちゃんと写真が撮れる。
 といっても、こちらは高感度のフィルムを使っているのだから、逆に「こんな道具でよく撮ったな」と、昔の人たちのワザに感服したり、写真そのものの奥深さも実感できるのだ。もしわたしが、ナガオカやコパルの定番でスタートしていたら、おそらく絶対に目にすることのなかった世界である。


 お陰で例えば、日本カメラ博物館や富士フォトサロンの博物館に並んでいる美しいバレルレンズをみても、わたしの目にはすべて現役だ。その場でただちにカメラにセットして撮影ができる代物なのである。
 残念なのは、こうした話を面白がってくれる人はいても、一緒にやろうというのがなかなか出てこないこと。長年のカメラ仲間にしてもそうである。みんな写されるのは大好きだが、自分で撮ってみようというのは、片手で数えるほどしかいない。
 かつて「アルパ研究会」で、ボシュロムのエアシャッターなぞもちだすわたしを見てチョートクさんが、「とんでもない方へいっちゃった」とあきれていたのを思い出す。チョートクさんは正統派だから、禁じ手の類いにはあまり興味を示さないが、意味合いは百も承知である。
 現にカメラもレンズもとんでもないものを持っているのだが、なにせせっかちな人だから、なかなか振り向いてくれないのである。(上は交通事故カメラの復元まで。左は4x5、左下は8x10のバックの付け替え。下はその8x10で撮ったアトリエ・イマン)
◆受難のフィールドカメラ
 さて、禁じ手の話に戻ろう。ジナーバックは完璧だから、大いに撮りまくったのだったが、難がひとつあった。金属バックは重くて、木製の本体との相性がいまひとつで、バランスも悪い。また、あとで手直しをした金具が、しばしば光線漏れを起こすようになって、かなり手痛い失敗もあった。
 本来の撮り枠(多くは乾板用)で撮ってみると、その違いがよくわかる。合理的で撮りやすければいいというわけじゃないなと。イギリスにはイギリスの、フランスにはフランスの、味とでもいうのだろうか、手間も時間もかかるやり方それ自体が、やっぱり意味を持っていることが、だんだんにわかってきたのだった。
 そんなとき、鎌倉で道路わきに三脚を立てておいたら、あろうことか車にはねられてバラバラになってしまった。和菓子屋をのぞいていたら、「ガシャーン」という音。飛び出してみると、立っていたはずのカメラが道路上に横たわっていて、無惨にもカメラ本体が裂けて、金具やビスが飛び散っている。
 車はそこに止まっていたが、それどころじゃない。本体は見た通りだが、三脚はどうか、ジナーバックとレンズが心配だった。幸いレンズ(クセノタール135ミリ)は無事だった。直接道路に当たらなかったらしい。ジナーバックもプロテクターがついていたので、ピントグラスが破損しただけ。直接ひっかけられた三脚は、木製の軟らかさのせいか折れてはいなかった。
 しかし、この間に車は消えていた。見事逃げられてしまったのだ。あまりのことに動転して、別にカメラをもっていたのに、車と運転手を撮ってもいなかった。なんというお粗末。
 カメラ自体は軽いから、ジナーバックとレンズの重さの方が倒れる衝撃を大きくしたと思う。が、ボディーが砕けたことで、レンズその他を救ったものらしかった。しかし、その残骸は無惨なものだった。ビスの一つひとつまで丁寧に集めて、持ち帰ったのだが、もうジナーバックをつける気にはならなかった。
 その後、ジナーそのものも手放し、フィールドカメラも3年以上もほったらかし。ようやく復元できたのは2年前、知り合いが「やってみましょう」と引き受けてくれたのだったが、これを機にバックは木製の5x7にして、軽いので以来5x7の主力になっている。

アメリカでは何でもあり 
 そんなわけで禁じ手はいまも、わたしの大判作法の中核になっている。最初のディアドルフ4x5バックは、いま別のフランスカメラについているし、バイテンのひとつは、イギリスのフルサイズ・カメラに細工したものである。この細工は大森・ルミエールの菊池千秋さんに助けてもらったのだが、傑作といっていいできである。
 こうしたバックは、アメリカのマーケットにはゴロゴロしていて、目についたものをぼちぼち買っていただけで、グラフィック4x5の新品のバックが2つ、木製の5x7と8x10がひとつずつ、ほかにキャビネや手札のスプリングバックもある。どんなカメラが現れても即応できるわけが、さすがにもうカメラを買う気はないから、これらにはもう行き場がない。
(上は浅草・伝法院で撮った古い写真だが、公開するのは初めて。モデルさんをわざわざ高いところに立たせたのだが、前に1人立ったために全体がぶちこわし、ブラックユーモアにもならなかった痛恨の1枚だ。おまけに光線引きがあったのを、初めてphotoshopで修正した)
 考えてみれば、バックだけが単独で売り買いされているというのも、おかしな話だ。はじめは「バックだけを本体から引きはがしたのか?」と、意味がわからなかった。が、そうではなく、これ自体がアメリカであり、また自由の象徴なのだった。
 世界最大のマーケットであるアメリカには、あらゆるカメラが集まった。サイズも各国さまざま。アメリカ人はそれを気ままに、都合のいいやり方で使った。まだ密着焼きの時代だ。大きい写真が欲しければ大きいバック、小さくてよければ小さいバックに変える。
 つまり、ひとつのカメラに大小いくつものバックは当たり前。木製だから、改造も簡単だ。メーカーもバックだけを売った。カメラは処分したのに、バックだけが残ったり‥‥それらがバラバラに流通しているのだ。アメリカでは、もともと写真とはそういうものだったのである。
 アメリカは何でもありだから、わたしのいう「禁じ手」なんぞは「当たり前田のクラッカー」。ディアドルフにグラフィックのバックをつけたりも平気。リンホフのバックがジナーサイズのベニヤ板にくっついていた、なんてのもあって、これにはあいた口が塞がらなかった。(写真上)
 ここまではさすがにつきあいきれないが、いまわたしがあるのは、ひとえにアメリカのお陰、自由のお陰。おおらかな大判王国サマサマなのである。