写真師たちの輝き

 知人からのメールに「維新の志士の写真」の真贋を問われたという話があった。ホームページのアドレスがついていたので、つついてみると、見事な集合写真が現れた。まげを結って刀を持った武士たちが、2人の外国人を囲んでいる群像だ。総勢46人。素晴らしい写りである。(以下の写真はいずれも、ブログ「教育の原点を考える」から)

◆驚きのフルベッキ写真
 知人は、デジタルのフォトレタッチの仕事をしているので、古写真のコレクターに意見を求められたらしい。写りがよすぎるので「合成ではないか」と答えたとあった。明らかに間違いである。常々いっているが、湿板写真師の技術はすばらしい。この程度の写りはいくらもある。
 そこで、写真の因縁などは見もせずに、「本物だと思いますよ。昔の写真師はこれくらい撮ります」とメールを送った。ところがよく見ると、46人の1人ひとりに名前が振ってあって、ありえない人物——西郷隆盛だの坂本龍馬明治天皇までがいる。おいおい、とんだ食わせ物だ。あわてて「よく見ないで、すみません」と謝りをいれたのだったが、これがまた、早とちりであった。
 不勉強で知らなかったのだが、この写真は「フルベッキ写真」といって、20年にもわたって真贋論争が繰り広げられているものだった。ホームページは「舎人学校」とだけでよくわからないが、管理者と慶応大の准教授(当時)とで大変な検証作業を重ねていた。
 それによると、写真は長崎にあった佐賀藩の藩校「致遠館」の塾生が、教授のオランダ人フルベッキと息子を囲んだもの。撮影者は上野彦馬。場所は彦馬の写場である。どうりで写りがいい訳だ。つまり、写真自体は合成でもなんでもない、本物なのである。
 明治の中頃から雑誌にも載っていて、検証では、彦馬のスタジオでも外国人向けに売られ、小さな名刺判の複製もあった。数ある幕末写真の1枚にすぎなかった。で、何が問題かというと、並んでいる名前なのだった。
 じっくり見ていただきたい。とんでもない名前——明治天皇は論外としても、維新の英傑や後の明治政府の要人がずらりと並んでいる。写真がないはずの西郷隆盛までがいる。そりゃあだれだって驚く。


◆とんだ英傑大集合
 最初に名前を入れたのはある肖像画家で、22人の名前とともに昭和47年、読売新聞に寄稿したのが始まりらしい。根拠がおぼつかないので、専門家は相手にしなかったが、これが「英傑大集合写真」として繰り返し現れる。昭和60年には、自民党二階堂進副総裁(当時)が議場に持ち込んで話題となった。
 この時も東京新聞が追跡調査して、「マユツバ」と断じたのだったが、平成16年(2004年)に佐賀の業者が、写真を焼き付けた陶板額を「幕末維新の英雄が勢ぞろい」と全国紙に広告を出して、またまた大騒ぎになった。いつの間にか44人全員の名前が“特定”されていた。
 ホームページには、これらの名前の人物をひとり1人克明に資料をあたって、つぶしていった結果が載っている。まあ、大変な労作だ。その結果、名前が間違いないのは、岩倉具視の2人の息子など11人で、いずれも英語塾の塾生である。撮影時も、「英傑派」のいう慶應元年(1865年)ではなく、明治元年(1868年)の10月から11月と特定された。むろん坂本龍馬らは死んでいるし、維新の英傑は1人もいない。(左は、東京新聞06年2月5日の検証紙面とブログの検証過程の写真。つけられた名前の人物の本物写真との突き合わせだ。大変な労作。いずれも上記ブログから)
 検証には沢山の専門家が登場するが、面白いのは、だれひとり写真の写りそのものには関心がないことだった。古写真の専門家は、学者でも博物館の学芸員でも、なべてそうである。映っている人、モノ、風景が研究対象であって、どうやって撮ったかは、どうでもいい。写真は現に目の前にあるのだから。
 なんか惜しい気がする。それがどんなに大変な技術であったかという実感がない。たとえばこれだけの大人数の、最前列から奥まで全員にピントを合わせるのだって、実は容易ではない。大判レンズは絞り込んでも被写界深度は深くならない。古いレンズには収差があるし、開放値も暗い。
◆どうやって撮ったんだ?
 湿板の感度はフィルムの何百分の1である。ISO400だ800だという今の感覚でいえば、ほとんど暗闇で撮っているに等しい。そこをきっちりと撮るには、絞り込まないといけないが、そうなると、露光時間はさらに長くなる。この頃で数秒はかけている。しかしだれひとり動いてはいない。
 現代人をこれだけの数並べたら、たとえ1秒か2秒でも、経験的にまず5人は動いてしまう。当時は動かない仕掛けがあったが、これだけの人数分あったとは思えない。「昔のサムライは辛抱強かった」だけではない、何かがある。「よく撮ったな」どころか「どうやって撮ったんだ」といいたくなる写りなのだ。
 写真は現に目の前にあるとはいえ、このあたりを不思議に思わないのは、大判写真の実際を知らないからである。一度でも撮ってみれば、そのワザがただごとでないとすぐにわかる。それがわかれば、古写真の探求もぐっと奥深くなるだろうに。惜しい、とはこのことなのである。
 大判にかぎらず、集合写真は、撮影者と被写体の共同作業だ。息が合わないと絶対にいい結果は得られない。古写真に写った人たちの存在感は、現代人より強い。彼らはそれこそまなじりを決して撮影に臨んだ。写真師もまた失敗は許されない。いわば真剣勝負。「はいチーズ」で1枚、「念のためもう1枚」というのとでは、結果が違って当然であろう。
 湿板の写真師はまた、様々なワザをもっていたと思われる。実際の露光時間が俗にいう「標準」より短かったと思われる写真が沢山ある。薬品の調合かも知れない。あるいは被写体を金縛りにする特別な言葉があったのかもしれない。これらはいわば「秘伝」だが、感度の高い乾板の出現とともに、歴史の闇に消えてしまったのである。
◆絵画から写真への転換
 上野彦馬が最初に写真を撮ったのは、文久2年(1862年)である。この年に出た訪欧使節団は、エジプト、フランス、イギリス、オランダなどで写真を残している。写真師の名前が残るのは、パリのナダールくらいのものだ。
 そんな写真師の名前がゾロゾロ出てくる珍しい写真展がいま、三鷹市美術ギャラリーで開かれている。「芸術家の肖像——写真で見る19、20世紀フランスの芸術家たち」(6月24日まで)で、タイトルの通り、フランスの芸術家の肖像ばかり100点。日本で知られている芸術家を選んだという。(「芸術家の肖像」展のパンフレット。大きな顔がマチス。小さな顔は、画像を拡大すると説明がある。マネ、モネ、ロダンなど)
 フランスの個人コレクションで、本国でも公開されたことがないのだそうだ。ユニークなのは、作品の多くに撮影者の名前がある。ダルマーニュ、ドラール、プチ、レズネ、トゥルイエ、ベナール、ディスデリ、ナダール、カルジャ‥‥これらが湿板時代で、ナダール以外は聞いたこともない名前だ。
 のち乾板からフィルムの時代になっても、ボナール、ドルナック、ムーリスと馴染みがない。が、サッシャ・ギトリ(映画監督の方で有名)、エドワード・スタイケンなども出てくる。(以下写真師の考証は、武蔵野美大・大日方欣一氏による。写真はいずれも、三鷹市美術ギャラリーのパンフレットから)
 時代が下れば写真術も進歩するから、味わいのあるポートレートも多い。しかし、ワザのほどを見ようとすれば、やはり湿板だ。それぞれ撮り方、スタイルに個性があって、これがなかなか面白い。
 日本でも、写真師の多くがもとは絵師であったが、フランスでもそうだったらしい。ナダールも元はカリカチュリスト(政治風刺画家)である。3年がかりで300人を描いた作品「パンテオン」(1854年)で話題になった売れっ子だったのが、一転パリにスタジオをかまえて、肖像写真で名声を博した。
◆写真師の知恵と冒険 
 ナダール(1820-1910)は好奇心旺盛だった。気球に乗って世界初の空撮をやったり(1858年)、フレアを焚いてパリの地下墓地(カタコンブ)の暗闇を撮ったり(初の人工光撮影)している。

 その気球のゴンドラをスタジオに持ち込んで撮ったセルフポートレートがあった。露光に何秒もかける湿板だから、ゴンドラの上でじっとしている姿が何ともおかしい(写真左)。5.5x7.5cmという、まあ小さな写真である。興味のある人は天眼鏡をもっていったほうがいい。
 空から撮影というのは大ニュースだった。これを仲間のカリカチュリスト、オノレ・ドーミエが描いた漫画(中)は有名だが、ナダールは逆にドーミエの肖像を撮った。ドーミエは、オルセー美術館に一室を持っているほどの描き手だが、およそ風刺画とは縁遠い堂々たる押し出しである。(右)
 湿板はダゲレオタイプと違って、コピーが何枚でもとれる。写真が爆発的なブームになった理由のひとつだが、これを生かして大もうけしたのが、ディスデリ(1819-1889)だった。
 ダゲレオタイプからスタートしているが、1854年に考案して特許を取った名刺写真(カルト・ド・ビジット)がブームになった。レンズが4つあるいは2つついたカメラで一度に撮る。その湿板を上下左右にスライドさせて、1枚の湿板に8-10枚を撮る。1枚は6x9cmで、ちょうど名刺になるというわけだ。
 切り離していない8枚が写った写真があった。ステレオカメラで4回撮ったという感じだ。歴史に残る知恵だが、実は「ディスデリ」という名前の2つ目、3つ目、4つ目の面白カメラがある。「変な名前だな」と思っていたのだが、この展覧会でようやく由来がわかった 
◆芸術家の生活も見える
 ディスデリのもとで修行したピエール・プチ(1832-1909)は、出張撮影をやった。これも画期的なことだった。湿板は、ガラス板に薬液を塗って濡れた状態で露光して、すぐに現像しないといけない。つまり、持ち歩きのできる暗室が必要だった。むろんカメラから薬品まで一式を持っていくのである。(上は、ドルナックが撮ったアトリエのファンタン=ラトゥール。後ろの絵は彼の代表作らしい)
 上野彦馬西南戦争で、つづらを持ち歩いた。人夫が運んでいる写真がある。フェリチェ・ベアトは駕篭を利用したらしい。南北戦争を撮ったマシュー・ブレイディーは馬車を仕立てて、戦場をめぐった。「不思議の国のアリス」のルイス・キャロルは、テント型の暗室を持って、モデルの少女たちとフィールド撮影に出ている。いずれにせよ、大変な手間であった。
 しかし、スタジオから出ることで、被写体の住居や生活環境を捉えることができる。肖像写真は奥行きを深めた。このコレクションには、そうして撮ったアカデミスムの画家のアトリエが沢山ある。どれもまあ、立派なお屋敷である。なかには、甲冑や武器などの膨大なコレクションが写っているのもある。そういえば、古い石版画にはよく室内の絵がある。あの雰囲気だ。
 画家の制作過程が見えるというのは、確かに面白い。画家の後ろには沢山の作品が架かっており、なかには世に知られた作品も写っている。自らの記録のつもりだったのかもしれない。これが乾板時代になると、暗室も薬品も要らなくなったから、ぐっと現代に近づく。(庭でモデルを描いているアンリ・トゥールーズロートレック。撮影者不詳)
 エドモン・ベナール(1838-1907)やドルナック(1858-1941)、ルイ・ボナール(1867-1947)はこれで意欲的に撮っている。ボナールが撮った、画家・彫刻家のジャン・レオン・ジェロームがヌードモデルと並んだ写真なぞ、当時としては衝撃的だったに違いない。
 アトリエが立派なのは、古典的な画家の多くが資産家の出だったということもあるようだ。貧乏画家が多く、またそのために戸外で描くことが多かった印象派になると、アトリエはあまり出てこない。代わりに、戸外や作品と向き合う姿になる。その意味ではちょっと時代が見える。面白いものである。
◆フランスの黄金時代
 フランスの奇妙は、ダゲレオタイプで写真の先駆をなしながら、その後の写真の進歩にはほとんど貢献していないことだ。ダゲレオタイプから湿板の初期まで、フランス・レンズは欧米をリードした。が、1860年代後半にイギリスに、次いでドイツに取って代わられると、それっきりである。
 唯一先頭を切ったのがルミエール兄弟のシネマだったが、これもほどなくドイツにやられる。カメラに至っては、20世紀初頭のタイプが第2次大戦後まで続く有様で、機材の開発に関心がないとしか思えない。そのくせいつの時代でも、パリはニューヨークと並ぶ写真の中心地であった。
 しかし近代になると、パリで活躍する画家や写真家で生粋のフランス人はどんどん少なくなる。右を向いても左を向いてもフランス人ばかり、撮ったのも大方フランス人という写真展は、その意味では珍しい。とくに19世紀の湿板、乾板の時代は、フランス写真がもっとも輝いていた時代といっていいかもしれない。
 ナダールと同時代で、ドラクロワ(1798-1863)やボードレール(1821-67)を撮ったエチエンヌ・カルジャ(1828-1906)も、もとはカリカチュリストである。プチのもとで写真を学び、多くの文人、政治家を撮った。性格描写にすぐれ、今回出ているボードレール(写真右)は、ナダールが撮ったものより内面を感じさせる。
 撮影者不詳でも、どれも腕は確かだ。サラ・ベルナール(1844-1923)、エドゥアール・マネ(1832-83)の小さな肖像(写真上、ナダールが撮った大きなものよりいい)、前掲のトゥールーズロートレック(1864-1901)、ポスターになっているアンリ・マチス(1869-1954)。さらに、ロダンアンリ・ルソールノワール(ドルナック)、クロード・モネ(ギトリ)‥‥おなじみの名前が並ぶ。
 ギャラリーによると、来場者の反応が面白いそうだ。「みんな堂々としている」「政治家か実業家みたいだ」と。確かに「これが芸術家か」の感はある。写真に写ることがまだ大変なことだった時代だ。だからこそ、写真師もまた輝いていた。
 上野彦馬は撮影のとき、「お動きあそばしませぬように」と声をかけたという。イギリスでは、「Be motionless, I beg you」といったそうだ。ニュアンスは驚くほど似ている。フランスではいったい何と声をかけたのだろう。この写真展は、その成果でもある。