写真はどこまで芸術か

 東京都写真美術館の「芸術写真の精華」展は、久しぶりに写真を考える機会になった。サブタイトルが「日本のピクトリアリズム 珠玉の名品展」とあるから、いわずとしれた、日本の写真史に残る「あの時代」の作品展である。
 同館の友の会員向けの内覧会があったので、出かけていった。年寄りばかりかと思ったらそうでもない。しかし、そこで出た質問が「これ写真ですか?」というのだから面白い。確かにとても写真とはいえない、絵画そのものみたいな作品がずらり。レンズと乾板が撮る写真というものが、本道をそれてしまった、いわば鬼っ子みたいな時代である。(同展のポスター。写真は、高山正隆「楽器を持つ女」1924年
◆写真で雑巾がけ?
 本来のピクトリアリズムーーイギリスからアメリカに広がって前世紀初頭の一時期を謳歌した、あの中でも「ここまではやらなかった」というほどの作品づくりがある。写真家たちをとらえたのは、プリントであった。写真を撮るのは暗箱と乾板。ここまでは確かに写真なのだが、そこから先が違った。
 密着あるいは引き延ばしで、原版から印画をつくるのが写真である。われわれが日頃手にしているのは、いわゆる銀塩(ゼラチンシルバー)で、それですら。やれバライタがどうとかやかましいものだが、この時代の違いは、そんなものじゃなかった。
 ピグメント(顔料)印画法というのがそれで、でんぷんと重クロム酸カリの混合液が持つ感光性を利用して、アラビアゴムやにかわなどを混ぜて感光させ、これに顔料で印画を作り出す方法である。カーボン印画、ゴム印画、オイル印画、ブロムオイル印画などがあるが、共通しているのは、顔料の加減ひとつで、かなり自由に画像に手を加えることができることである。
 早い話が、要らないバックを塗りつぶしたり、トーンを変えたり、印画紙を曲げて像をゆがめたり、わざと筆の跡を残して絵画のような感じに仕立てることもできてしまう。さらに、ソフトフォーカス・レンズの効果と組み合わせたりすれば、ひと味もふた味も違ったものになる。写真家たちは、これにとらわれたのだった。
 また、ゼラチンシルバーでも、印画紙にオイルをしみこませておいて、これに油絵の具を塗り付けて、紙や布、脱脂綿などで拭き取っていく修正法がある。ゴシゴシやるので俗に「雑巾がけ」と呼ばれるもので、実は日本だけの独自技術。例のベス単のもやもや描写を利用したりして、本家の「ピクトリアリズム」を超えた絵が数多く残っている。(左は野島康三「髪梳く女」1914年、下は日高長太郎「山岳の雨」1918年、いずれもゴム印画。同展の図録から)


 いわば日本人の好奇心と探究心と器用さが生み出したもので、先の「これ写真ですか?」は、初めて見た人の正直な印象だった。「絵じゃないんですか」というわけである。技術の詳細はいくら聞いてもさっぱりわからないが、実際にやってる人にいわせると、「こんな楽しいことはない」のだそうだ。
◆作品はみな一点もの
 この写真展を構成した金子隆一氏によると、作品集めには相当苦労したらしい。作品の多くは遺族が所蔵しているのだが、ほとんどは値打ちのある作品と思っていない。また、コレクションしている人も、いわば変わり種写真として保存しているようで、数が少ないものが世界中に散らばっていて、さらに代が代わっていたりすれば、もうそれっきり。そんな作品ばかりなのだという。
 なぜそうなのかと聞いたら、「一点ものだから」という。つまり、同じ原版でも上がりは1枚1枚違うから、できたものは別ものになる。事実、いくつもコピーを作ることはしなかったものらしい。展示の中に「どこそこに別のプリントがある」と表示があったのは、むしろ「珍しいよ」という意味なのであった。
 そもそも、この時代の作品に目をつけた金子氏自身が、変わり者と見られていたらしい。そのあたりは氏も心得ていて、以前開いた写真展を見た写真誌の編集長が、「よかったよ」といったあとで、同行者に「金子君の世界だね」とささやいたのが聞こえたと、笑いながら話していた。(次も図録から。右は岩佐保雄「踏切を守る母子」1931年、ブロムオイル印画。下は小関庄太郎「海辺」1931年、ゼラチンシルバーに雑巾がけ)
 それはそうだろう。写真でソフトがどうとかいうのは、写真のもつ本来の特性(シャープネス、再現性)をいわば否定しているわけだから、危ない人たちか、一時の気の迷いかどちらかである。ひとつ間違うとひとりよがり、さらにはゲテモノと紙一重になりかねない。
 にもかかわらず、ソフトそれ自体は十分に面白いものだから話はややこしい。ソフトフォーカスは、写真好きならだれもが一度ははまり込むものだ。レンズがまた数が少なく神話、伝説めいているものだから、みな憧れる。ソフトレンズがいつの時代でも人気の所以である。
 レンズ遊びですらそうなのだから、「雑巾がけ」だのゴム印画だブロムオイルだとなると、もう完全にいっちゃってる人たちである。ただ、現像プロセスが必要で、レンズのようにお金で買えるものではないから、手がける人はやはり限られる。
◆辻褄は合っているか

 先頃、江古田の日大芸術学部であった研究科の修了制作展で、これが見られた。出展は4人だけで、フォトグラビア(銅版画技法)、ゼラチンシルバー、ブロムオイル、鶏卵紙と、それぞれ異なるプリントがモダンな形で並んでいた。
 さすがに写真専攻だから、ピクトリアリズムみたいなのはなかったが、ここであらためて、写真とプリントの意味を考えさせたれた。それぞれは面白いのだが、さて、本来のシャープな写真を、わざわざ古めかしいプリントに仕立てた必然性はあるのか。
 この写真展を褒めていた、六本木のラボ「田村写真」の田村政実さんも、「辻褄が合わないんですよね」といっていた。古い技法と自分の持っている写真の感性とが必ずしも一致しないということだろう。東写美の「ピクトリアリズム」を先に見て触発されていたら、面白いものができたかもしれないと、ちょっと惜しい気もした。
 この写真展では、フォトグラビアが面白かった。本来は19世紀の印刷技術だが、見慣れぬ質感が新鮮に見えたし、また十分にモダンであった。解説を読むと、パソコンを使ってポジを作ったのだそうで、その限りでは学生の感性と「辻褄が合って」いたのかもしれない。事実、かなりの写真家が、この技法で作品を作っているのだそうだ。面白いものである。
 以前「ベス単遊びは病気か?」と書いたことがあるが、本音は「か?」ではなくて「病気」だと思っている。わたしはドキュメンタリーからスタートしていて、アートにも無縁だから、わざわざもやもやした絵を撮るというのが、どうにも落ち着かない。まったく別の絵づくり、別の範疇の写真だと思っている。
 しかし、ピクトリアリズムの現物を目の当たりにすると、これはこれで、十分に独立するものかな、という気持ちにもなる。それが「芸術」かどうかなんてどうでもいい。作り手と受け手の波長が合えば、万々歳なのだから。
◆ゴム印画は命がけ?
 それにしても、どうやったらあんな感じが出せるのか。理屈なんかいくら読んでもわからないから、実際にやっている人に聞くしかない。というわけで「田村写真」へ出かけていった。ちょうど「雑巾がけ」のもとになるプラチナ・プリントの薬品が置いてあって、「塩化プラチナ」だの「パラジウム」だのと説明してくれたが、やっぱりわからない。
 わかったのは、「雑巾がけ」はレタッチ(修正技術)の延長みたいなもので、いわば簡易プロムオイルだということ。この方法は、浮いてくる絵の具をふきとるだけなので、1時間でできるが、ブロムオイルは1週間くらいかかるのだそうだ。
 本当のブロムオイルは、漂白した画面のゼラチンに顔料をコツコツと叩きつけていくので、最後のところで紙が破れたりしたら一巻の終わり。しかし雑巾がけは、失敗したと思ったらやり直しもできるのだという。日芸に出ていたのは本物の方で、これはなかなか難しいといっていた。
 もっと難しいのがゴム印画で、絵の具とアラビアゴムと重クロム酸カリを混ぜて紙に塗って 感光させるのだが、いっぺんに濃くはできないので、何度も露光を繰り返す。そこで原版とずれないような工夫も必要だし、長い時間猛毒のクロムに触れるから、「ゴム印画の作家はみな短命なんです」と恐ろしいことをいう。まだ、化学知識も十分でなかった時代だ。

 田村さんは文献にも詳しく、古い写真集をいろいろ出してきて説明してくれた。なかに大正15年(1925年)の「写真美術年鑑」という立派な写真集があった。「昭和元年か」「この頃が芸術写真のピークだったんです」。この年鑑は、「カメラレビュー」の編集長だった萩谷剛さんの蔵書で、田村さんは「私が借りていたので、助かったんです」という。
 何かと思ったら、萩谷さんは写真関係の膨大な蔵書を、福島・南相馬の親戚に預けてあったのが、今度の東日本大震災津波で流されてしまったのだという。まあ、なんという巡り合わせか。ご本人は、「そこにあってよかった」といっていたそうだが、貴重な文献がどれだけ失われたかを思うと、声のかけようもない。(上の3枚は写真美術年鑑から。左端は「気を写す」の有賀乕五郎の作品)
◆芸術でも何でもない
 話を戻すと、これらの手法がすたれたのは、手間がかかるという一点である。田村さんによると、昭和の初めのドイツ・マルクの暴落で、カメラが安く買えるようになったのも関係するという。だれでも写真が撮れるようになって、写真自体が芸術志向からいわば本道に戻ったのである。
 この頃の芸術派は、安いベス単を使ってさらにプリントにこだわるのが本流だった。新しいカメラに走る風潮を指して、「あれらは芸術家じゃない」と批判していたそうだ。が、時はまさにライカが生まれ、ベルクハイルやスーパーイコンタができ、やがてコンタックスである。手間のかかる芸術写真がすたれるのは、時間の問題だった。
 写真はシャッターを押せばすむ。それが値打ち。この便利さとレアリズムには、だれもかなわなかった。これで面白いのは、福島の写真家小関庄太郎(1907-2003)である。古着などを扱う老舗の跡取り息子でありながら、家業を家族にまかせて、一生写真を続けられた幸せな人だ。(これも図録から。小関庄太郎「1人歩む」1929年、ゼラチンシルバーに雑巾がけ)

 17歳でベス単を手にしたのが初めで、昭和の初期、「雑巾がけ」を主とした作品が高く評価された。今回の写真展でもひときわ異彩を放っていて、「これ写真ですか?」の代表だった。
 しかし、戦後は木村伊兵衛森山大道植田正治を追って「普通の」写真を撮り続け、初期の作品が東京都写真美術館に収蔵されるようになっても、「あれらはくずのようなもの」とまったく評価せず、「写真はカメラが勝手に写してくれるもので、私の写真は芸術でも何でもありません」が口ぐせだったという。(同展の図録・堀宣雄氏の論考)
 堀氏はこれを「逆説的に芸術家としての強烈な自負」といっているが、むしろ、何をもって芸術というか、の視点がすでに移ってしまっていたと見た方がわかりやすい。晩年の小関の目には、初期の作品はもう写真ですらなかったということだろう。たしかに全く別ものである。
 田村さんの話では、いま世界的にピクトリアリズムが見直されていて、実際に手がける人もいるのだという。アメリカではアルフレッド・スティーグリッツとクラレンス・ホワイトが中心(後にスティーグリッツは袂を分かってストレートフォトに走る)だが、エドワード・ウエストンや水晶レンズのカール・ストラスなどホワイトの人脈は層が厚く幅も広い。(左は田村政実さんの「雑巾がけ」作品。下はピクトリアリズム文献とホワイトのフォトグラビア)
 しかし、これらに較べても、日本の芸術派は一種独特である。その中心技術が「雑巾がけ」だったと田村さんはいう。そこでいま、「芸術写真講座」を開いたり、「雑巾がけ」のワークショップも計画中だ。
 「時間がかからないから、みんなで楽しむにはいい。(ゴム印画と違って)雑巾がけは健康的だし、日本人のアイデアだから、日本の文化」だと。
 いまソフト画像を作るだけならば、PCでインクジェットという手もあるが、「やはり手触りが違う、手作り感がない」そうだ。逆に新技術を使えば、35ミリ判から反転現像して、インクジェットで拡大ネガ作ったりもできる。最近アグファが作り始めた乾板(6x9cm)で撮ると、シャープで強い絵が撮れる、などとまことに意欲的だ。
 ただひとつ、いい紙がないのが悩みだという。いまの印画紙は薬品がしみ込まないので、古い技術には使えない。油がしみこみゼラチンが残るような‥‥これがなかなか難物なのだそうだ。この話もまた、さっぱり飲み込めないのだが、実際にワークショップが始まったら、真っ先にでかけていこうと思っている。ネガならいくらでもあるのだから。