雑巾がけは楽し

 前回の「芸術写真」で触れた「雑巾がけ」というヤツ。およそいまの写真とはほど遠い画像が、やっぱり気になる。芸術する気なんかさらさらないし、ピクトリアリズムといっても、せいぜいがソフトフォーカス・レンズの写りが気になる程度なのだが、自分の写真を思い返してみると、いたずらしてみたら面白いかな、と思うものはいくつもある。
 デジタル技術でも、わざわざ画像をくずしたりするものがあるというから、だれもが少しはそんな願望をもっているのだろう。邪道だなんだと、いいだしたらきりがないが、あれだけ「銀塩が」とわめいていた連中だって、知らん顔してphotoshopをいじり倒している。そもそも銀塩の焼き込みだって、似たようなものではないか。
◆ハードルがいろいろ
 ただ、「雑巾がけ」をやるには、まずは暗室作業が必要だし、絵の具の類いその他もろもろを取り揃えないといけない。だいいちツルツルのRCペーパーじゃ無理だろう‥‥なんていっていたら、六本木のラボ「田村写真」の田村政実さんから「いいペーパーが見つかりました。イルフォードです」という。しかもワークショップをやるというので、その気になった。(田村写真のワークショップ)
 ところがいくら探しても、お目当てのネガがみつからない。ネットのアルバムにモノは載っているのだが、ネガをどこへ置いたか。多分トランクルームの奥で下積みになっているのだろう。仕方なく手ぶらで「取材」にでかけた。集まったのは3人だったが、こんな遊びをやろうというんだから、みんなただ者じゃない。
 田村さんはこの技術を、東京都写真美術館の講習で会得してきたのだそうで、ワザとしてはそう複雑ではないらしい。ただ、始めるまでが大変だ。
 普通の人では自前のプリントというだけでもアウトである。田村写真はラボだからこれは問題ないが、もうバライタがないから、絵の具の乗りがいい印画紙を探さないといけない。田村さんも相当苦労したらしい。が、意外やイルフォードが妙なものを作っていた。絵の具や油は、油絵の道具そのものである。
 私がのぞいたときにはもう、プリントがあがっていた。3人それぞれに絵柄を選んで六つ切り、どれも静かな写真である。初めてなので無難なものを恐る恐るという感じだ。イルフォードの紙は、印画紙というより木炭デッサン紙みたいだ。こんな印画紙見たことがない。そのまま展覧会に並べても面白いかも知れない。
 さーてこれをどういじくりまわすのか、絵柄と作者のつもりとワザとでどんな結果が出るかわからない。こちらは見ているだけだが、なんとなくぞくぞくする。
◆雑巾がけの実際
 手順はシンプルだった。まず、汚れがはみ出さないようにマスキングテープで画面の周囲を区切る。ついでオイルを塗って絵の具の食いつきをよくしておいて、チューブから出した絵の具をコテやティシュー、脱脂綿などで画面全面に延ばしていく。塗りつぶされると画面が見えなくなるが大丈夫。油絵の具だから、ゴシゴシ拭き取るとまた画面が見えてくる。(左)
 面白いのは、絵の具の色を選べることで、田村さんがまず自分の写真に黒を使ったあと、茶の入った黒を出してくると、はっきりと違う。また、植物の葉っぱの部分に緑を乗せて、花のところはまた別の色を、なんてこともできる。まあ、元がモノクロ写真だから、自ずとカラー写真とは違うのだが。
 どうやら分厚く塗って、そのまま塗りつぶしもできるし、逆にきれいに拭き取って元の状態に近くもできる。田村さんは「ゴム印画やブロムオイルと違って、失敗してもすぐやり直せる」という。ブロムオイルは、顔料をコツコツと叩き付けて積み重ねるのだそうで、たしかに後戻りはできまい。またゴムは何度も露光を重ねてだんだん濃くしていくのだから、これまたやり直しはできない。
 それにくらべると「雑巾がけ」は、塗り込んだものを拭き取るだけだから、まことにシンプルである。拭き取るものによって効果は違うのだろうが、ティシューと脱脂綿と麺棒ではどう違うかとなると、1回や2回でつかみきれるとも思えない。
 田村さんはさすがに用意周到だった。小物をいろいろ繰り出してくるのだが、汚れ物はただちに大きなくずかごに放り込む。こういう準備が肝心だ。油絵を描く時と同じで、始末の悪いヤツだと、パレットから絵筆はまだしも、机や洋服までそこら中絵の具だらけになってしまう。写真の余白にも汚れがついてはまずかろう。けっこうデリケートな手ワザのようである。
◆見えてこない道筋
 ただ見ていると、元のプリントは現代写真だからあくまでシャープそのもの。多少塗りつぶしてももやもやにはならない。拭き取れば元の姿に戻ってしまう。どの部分をどうやってどんなバランスでとなると、これは相当なパズルである。やる以上は、小関庄太郎とはいわないまでも、かなりの気構えで臨まないと作品にはなかなかならないかもしれない。
 昔の人と違って、現代人には写真はカチッと写って当たり前のものだから、これを崩す、あるいは絵画のように、と変形させること自体に抵抗感がある。また、多少へそ曲がりで、ソフトフォーカス・レンズがどうとかいううるさい連中にしても、画像はあくまでレンズが作るものというのは肌にしみついている。いじくりまわすなんて、できるのか?
 指導をしている田村さんにしてからが、まだ雑巾がけそのものの面白さを楽しんでいる風で、最終形がなかなか見えてこない。単に黒く焼き込むだけなら、暗室でもデジタル処理でもかなりのことが可能だから、そこをどう突き抜けるか、もう少し試行錯誤を経ないと、道筋が見えてこないのではないか。そんな感じである。
 3人のうちの1人は、この連載でお世話になっている城靖治さん。城さんはこの日、期限切れ80年以上という昔の乾板で撮った写真をいじっていた。仲間で東写美へいったときに撮った記念写真で、絵柄自体はただの集合写真である。
 ただ長い歳月を経た乾板だから、光線は漏れている、乳剤も経年変化でムラがある、はげ落ちはあるわ、カビもはえているわ、おまけにオルソクロマチックだから赤色には感光しないと、まあプリントとしてはとんでもないものだった。

 いたずらするにはいい材料だったかもしれないが、やっかいなことに写りはきわめてシャープである。多分道は2つあって、ムラや汚れの類いを修正して、正常なプリントに近づけるか、あるいはいっそめちゃくちゃに塗りたくってしまうか、どちらかである。
◆踏ん切りがカギ? 
 結果からいうと、城さんはどちらでもなかった(上の2枚)。いや、どうにもならなかったという方が当たっているかもしれない。これは2枚の写真を並べてみるとよくわかる。きれいに見える方は、オリジナルのデジタル画像を、photoshopの焼き込みと覆い焼きで、正常に近くなるよう修正したものである。入念にやったら、さらによくなるだろう。
 もう一方が「雑巾がけ」で、これはむしろ乾板のオリジナルの感じがそのまま残っている。「雑巾がけ」では黒くすることしかできないからだ。暗室作業でいうと、焼き込みはできるが、覆い焼きはできない。画面をオリジナル以上に明るくすることはできないから、画面下半分のムラはそのまま残ってしまう。
 もともと完全でない画像だから、塗りつぶすだけで何とかしろといっても、これは難しい。初めての試みにしては、難物を選んでしまったらしい。たとえばあなただったらどうするか。イメージできるだろうか。作業を見ながら、わたしにもアイデアが浮かばなかった。それに較べると、photoshopの修正なんぞ、楽なものである。


 他の2人の題材は、彫刻とか花とかだった。お借りした2枚はともに花のイメージだが、狙いの違いがはっきりしていて面白い。阪本しのさんは、はじめから色を意識していたようで、グリーンや赤も使っていたようだったが、完成したものはご覧の通り。オリジナルと較べると、意図がわかる。初の試みにしては大胆である。(上の2枚)
 もう1人の谷雄治さんのは、大判のボケを生かして雑巾がけで全体のトーンを落とし、花びらを浮き立たせ、葉の一部にもアクセントをつけている。むしろオーソドックスというか、端正な仕上げだ。このオリジナルからだと、とんでもない道筋は描けないかもしれない。(右)
 谷さんはいま、「面白いです。我を忘れてペインティング・フォトに励んでいます。今年はこれで作品を作る事にしました」といってるそうだ。
◆新たなピクトリアリズム?
 なんにしても、お手本があるわけでもなし、同じ絵柄でも人によってイメージは異なる。できあがったプリントを前に、「オレだったら、こうする」「いや、こうした方が‥‥」なんていう「愉快な」話になるのかもしれない。そういえば昔は、同じネガから別人が別のプリントを作って、そのまま発表するなんてこともあったらしい。それだけ、プリントが独立していたということなのか。面白いものだ。
 田村さんはまた、古い文献を手に入れたと写真を送ってきた。「PRINT FINISHING(1938)」というタイトルからすると、「雑巾がけ」の教本みたいなものらしい。オリジナルとプリントとが並んでいる。手を加えているのは確かにわかるが、どちらがいいかは好みの問題だ。(上)

 アメリカ人はこういう技法の解説とかワークショップが大好きなようだ。暗室作法とかポートレート・風景の撮り方、レンズの描写とか。国土が広いから通信講座も盛んで、テキストも立派なものがある。こんな冊子を見ていると、どこかの田舎で、ひとりコツコツとマニュアル通りに、写真を楽しんでいるおじいさんの姿が目に浮かぶ。
 プリントの違いは、雑巾がけだけでなく、印画紙でも大いに出る。今回使った紙は、「Arista.EDU® Ultra FB Semi-Matte」「ILFORD MULTIGRADE ART 300」の2種類だったが、Aristaがバライタ風なのに対して、ILFORDはデッサン紙のようなマチエールで、プリント自体が絵画のような感じになる。(真っ黒でちょっとわかりにくいが、面白い効果だ。城さんのプリント)
 だから、これでベス単写真などを焼いたら、わざわざ雑巾がけをしなくても十分に面白そうなのだが、さらに驚いたことにこれが新製品で、別にバリエーションもあるのだという。ということは、需要も新しいということだ。新たなピクトリアリズムの台頭なのだろうか。
 写真はデジタル技術の進歩で、シャープネスも使い勝手も極めてしまった。そこでまたぞろ、わがままのへそ曲がりが出てきたということか。ヨーロッパなら十分にありうる。これまでもそうだったし、歴史は繰り返すものだ。

◆落とし穴に気をつけて
 そこであらためて、自分の写真からいたずらができそうなものを拾い出してみた。ネガが見つからないから、ネットにあったデジタル画像から引っ張り出したのである。絵によって、こうしたらああしたらと、つもりはいろいろだが、それぞれは写真としてもそれなりのものだと思う。また、そうでないと、いくら塗ったくってもいいものはできないのではないか。(上の3枚、あなたならどう塗ったくる?)
 ひるがえって、かつての「芸術写真」を並べてみても、これぞと思うものは、別に雑巾がけやら何やらしなくても、いい絵柄ばかりである。ゴム印画で重厚な空気は出るかもしれないが、その前にいい写真でないと、やっぱりダメだろう、という気がする。
 この日のワークショップでは最後に、城さんがいまはまっている古い乾板を持ち出して記念写真を撮った。9x12cmという大陸サイズだ。おそらくは戦前も戦前、「昭和10年代ではないか」という代物だったが、これが見事に写った。むろん盛大な光線漏れ、乳剤の欠け落ちがあるのだが、これを見ていると、「写真の進歩って何なの?」といいたくもなる。
 そして、これもまた「雑巾がけ」したらどうだろう、なんて思ってしまう。ちょっと危ない。でも、あなたもひとつどうです。ご自分のプリントを並べてみたら。ただし、楽しいものには、必ず落とし穴があることをお忘れなく。(乾板での記念撮影。photoshopで整えてある。撮影:城さん)