ニコペル詣で

 レンズに制作者以外の人の名前がつけられるのは稀だ。ニコラ・ペルシャイトが唯一かもしれない。本人よりもレンズの方がはるかに有名だが、どうして名付けられたか、実は定かでない。作ったエミール・ブッシュも、「ニコペルのメーカー」として記憶されることが多い。なんとも不思議なレンズである。
 日本では、発売後間もない昭和の初めから知られていた。ドイツで写真を学んだ銀座の有賀写真館の創業者、有賀乕五郎が購入したのが話題になり、各地の写真館が競って購入したからだ。前に触れた藤原写真場のものは、そうした中の一本である。
 以来長いこと、ニコペルは写真館のステータスシンボルであり、入手の難しい幻のレンズだった。これがバブルのころの円高クラカメ・ブームでかなり流れ込んで、いまや愛好者も多いらしい。しかし、なにしろ大判用だから持つ人は限られる。わたしも触ったことがあるのは、藤原写真場と城靖治さん所有の、同じ42cmだけだった。

船橋にあったお宝◆
 その藤原洋平さんから声がかかった。同業の船橋の写真館に、別の長さのニコペルがあるので見に行きましょうという。これは面白いと、好き者に声をかけたらみな興味を示したが、都合の悪い人もあって、結局藤原さんともう1人と3人ででかけた。
 JRの船橋で京成に乗り換えて下り方面へひと駅、大神宮下の駅前だという。京成の八千代台に住んでいたことがあるので、船橋で毎日乗り換えていたのだが、まあ30年以上も前だから、当然ながら駅前は別世界だった。JRも京成も高架になっていて、かつてのほこりっぽい乗り換えの風情なんぞかけらもない。
 今井写真館は本当に駅の真ん前にあった。見るからに写真館とわかる瀟洒な白い建物で、湘南にでもあったら似合いそうな風情。今井栄助さんは、にこにこと迎えてくださった。全日本クラシックカメラクラブ(AJCC)の古いメンバーで、その道ではレンズのコレクションで聞こえた方なのだそうだ。藤原さんもおそらくは、仕事を離れてのレンズ探索は初めてに違いない。ただのレンズ好きに戻って嬉しそうだった。
 今井さんは、「ポートレート・レンズというので、選んでおきました」と、写場のテーブルにずらりと並べてくれたのが、ダルメーヤーのポートレート3B、ヘリアー14in. f4.5、ポートランド18in. f5.6、それにニコペルがなんと4本——48cm、42cm、30cm、21cm(いずれもf4.5)だった。ほかに36cmもあるという。こちらはただただ「ハァー」というばかりである。


 なんでも30cmの玉は、戦前日本橋にあってのち浦安に移った深沢写真館がもっていたもので、戦時中防空壕にいれておいたら、水に浸かってしまった。それをきれいに修理したものを、戦後今井さんが譲り受けたのだとか。間違いなく初期のものだ。
 まあ、構成はシンプルなレンズだし、水に浸かったってどうってことはないのだろうが、たとえどうかなったとしても、それはそれでレンズの個性になる。大判レンズとはそうしたもの。ちょっと湿気がきただけでおかしくなる35ミリ判レンズとは世界が違うのだ。
 驚いたのは、48cmだった。まあでかいこと、立派なこと、またきれいなこと(写真。右隣の21cmがまるで赤ちゃんに見える)。重さはどれくらいあるか。42cmでも3キロくらいはあったから、ジナーでももつかどうか。今井さんのはタチハラの木製アンソニーだった。これに珍しい観音開きのシャッターつき。これならなんでもござれだ。
◆観音開きはおまかせあれ◆  
 レンズばかりは、眺めていてもはじまらない。まずはダルメーヤー。天才ダルメーヤーが、ソフトレンズの歴史を開いた記念碑である。ペッツバールの後玉の凹凸を逆にして、後玉の回転でソフトの度合いを調節できるようにしたものだ。世界で最初のユニバーサル・ソフト。
 といっても後玉だから、調節するにはピントを合わせてからバックをはずして、蛇腹の中に手を突っ込んで目盛りを合わせないといけない。以前、もっと焦点距離の長い3Dというので撮ったことがあるが、面倒だからソフトの調節はしなかった。今回もソフトはパスである。
 3Bは多分250ミリくらい(古いレンズには焦点距離の表示はない)だから、バイテンはどうかと思ったが、差し込み絞りF8で試みた。むろん今井さんと藤原さんお二人のポートレートだ。ピントのヤマはつかみやすく、観音開きシャッターも、パコン、パコンとなかなか調子がいい。
 試し切りをやっていると、2人のプロは「もっと歯切れよく」なんて、けっこうやかましい。いやいや観音開きは慣れてます。露出はおまかせあれ。手加減ならだれにも負けません‥‥というわけで、まずは1枚。結果はやはり8x10には届かず、四隅が切れた。これでも少しトリミングしてある。(タチハラ・アンソニー、ダルメーヤー3B、TX)

 そしていよいよニコペルだ。おすすめはどれかなと思っていたら、今井さんは48cmをもってきた。いやーでかい。そして「開放だとピントがきびしいので」と2つほど絞り込んでからセットした。なるほど、とのぞいてみると、これはかなり合わせやすい。これまで(といっても42cm2本だけだが)でいちばん合わせやすかった。
 さすがに、同じ距離からだと上半身しか入らない。しかしピントにメリハリがあって、ボケはなめらかでフレアもない。後期のトリプレットかもしれない。あがりも実に端正だった。だからといって、「48cmは‥‥」などといってはいけない。この手のレンズは一本一本違うのだから、正しくは「今井さんの48cmは‥‥」といわなくてはいけないのだ。(タチハラ・アンソニー、ニコラペルシャイト48cm F4.5、TX)
 ニコペルとは本来どんな写りなのか。ある名のあるプロが、その感想を写真雑誌で「長い間撮っていると良さがわかってくるのだろう」と正直に書いていたので笑ったことがある。要するにわからなかったのだ。もやもやとしたモデルの写真が載っていた。こうなると、プロも気の毒である。
◆レンズ体験はパーソナル◆
 何十年も撮っている藤原さんからも、「このレンズは‥‥」といった講釈めいたことは一度も聞いたことがない。この日の今井さんも、「絞らないと見えにくい」とアドバイスしてくれただけである。あとで電話したときにも、「どんなあがりでしたか」と結果を知りたがっていた。
 被写体によって、ライティングによって、また撮る側の意図によって、むろん絞りにもよって、作り出す画像は違うはずである。長年これで撮っていたお2人は、おそらく自分の意図に合った設定をひとつかふたつ、いやもう少し多いかもしれないが、それを「マイ・ニコペル」として守っているのではなかろうか。それは人に押し付けるものではない。古いレンズ作法とはそういうものだとわたしは思う。
 レンズの性能を全部試すなんてのは、写真雑誌の話だ。「新製品ニュース」は、ばらつきのない現代レンズだからこそできる。こと古い大判レンズに関しては、体験はパーソナルなものになる。それをユニバーサルみたいにいう人がいたら、まゆつばだと思ったほうがいい。「このレンズ(個体)はこうだよ」というのが正しいいい方なのだ。

 それでなくても、アマには試し撮りなんかする余裕はない。最初から真剣勝負で、写真を撮る。藤原写真場で初めてニコペルを撮ったとき(「さらば写真館」参照)も、ピントテストではあったが、あくまで作品のつもりである。その意図は生きたと思う。だからこそ、1枚2枚撮っただけで厚かましくも口が開けるのだ。
 そうして撮った少ない枚数でも、まあ半分以上は失敗である。プロは口が裂けても語らないが、アマはこれについてもしゃべることができる。失敗作を見せても平気。アマの特権だ。他人の失敗作ほどいい教材はないのだから、これは大いに参考にしていただきたい。ここはそういうページなのだから。(野村華苗さん。藤原写真場の42cm、絞りはf9くらい。明るいからピントの具合がよくわかると思う)
 しかし、世の中は広いもので、この希少レンズで沢山撮って大いに語っている人がいる。それによると、ニコペルにもいろいろあって、初期の2枚張り合わせを対称に置いたダブルガウス(ペリスコープ)から、のちにトリプレットになり、最後はまた初期のものも作っているのだそうだ。
 それぞれのタイプによる特性の違いなども、述べられていて、なかには「アレッ?」という部分もある。おそらくそれが、個体の違いなのであろう。ただ、「絞りこんだときにもいいレンズ」というのには参った。へそ曲がりのわたしも、さすがにニコペルをF22とかに絞り込んで撮ってみるまでの好奇心はなかった。そして、多分そうだろうなという予感。「なるほど、すごい人はいるもんだ」と、妙に感じ入ったのであった。
◆神話となった自画像◆ 
 このレンズの名前のもとになった写真家ニコラウス・ペルシャイト(1864-1930)は、ケルン近郊の生まれ。15歳から写真の修行を始め、巡回写真師として各地を転々としたあと、94年にライプチッヒでスタジオを開いた。ここで風景や肖像作品を写真雑誌に発表するなど名声を得て1905年、ベルリンに移る。初期のカラーの試みなどもしたらしい。理由は定かではないが、12年にはスタジオを畳んで、スウェーデンの職業写真家協会で教えている。
 しかし第一次大戦中は、生活のために軍人のポストカード撮影などもしたらしい。戦後は23年からコペンハーゲンデンマーク写真カレッジで教鞭をとったが、ベルリンに戻った20年代後半には生活に困窮して、アパートを又貸しするような状況だったという。
 名声のある写真師がなぜ?と思うが、29年に心臓発作で倒れたときは、入院費用を払うために、カメラや乾板から家具まで競売にかける有様で、亡くなったのはベルリンの慈善病院だった。
 彼の名前を冠したレンズがつくられたのは、20年ころからで、エミール・ブッシュが、ペルシャイト先生のアドバイスを容れたとされる。このレンズを使って撮った有名なセルフ・ポートレートは1923年の撮影で、ちょうどデンマークに移るころ。彼がもっとも輝いていた時代だったのだろう。(ペルシャイトの自画像 Library of Congressから)
 このベルリンのペルシャイト・スタジオと接点のあったのが、前出の有賀乕五郎だ。1908年(明治41年)ベルリンへ渡り、ペルシャイト・スタジオに出入りしたらしい。ペルシャイトの評伝の中に名前が出てくる。のち写真専門学校、工科大学で学び、大戦さなかの15年に帰国して、ドイツ流肖像写真を伝える。ひょっとしてペルシャイト流だったのかもしれない。
 有賀がニコペル・レンズを購入したのも、そのつながりだったようだ。昭和の初め、日本ではペルシャイトなんて誰も知らなかった。これが話題となって、日本から次々に注文が出て、エミール・ブッシュはわざわざ「日本用に」増産したともいわれている。

 かくてニコペルは、日本の写真館のあこがれのレンズになる。同時にペルシャイトの自画像写真が、一種の神話になっていく。背景も黒、衣装も黒、なかで顔にだけスポットを当てて、大写真家の個性を浮き立たせていると。後になるとこれが、「レンブラントのような」、あるいは「こうでないとレンズの特性が生きない」などといわれるのである。
 現にニコペルのポートレートというと、暗い感じで撮る人が多い。大なり小なり、神話をひきずっているのであろう。しかしわたしはへそ曲がりだから、「こんなに暗くちゃ、ボケ具合すらわからねぇ」とばかりに、真っぴかりの中で撮ったりするもんだから、思い入れの深い人たちは厭な顔をしていることだろう。たしかに思い入れはない。レンズとしても、ヘリアー系の艶やかな描写の方が好きなくらいである。
 ニコペルは決してボケレンズではない。ピントが合ったところはカチッとしている。ただ、はずれたところのボケ具合が急激で、しかし自然である。絞ればフレアもない。同じソフト・フォーカスでも、人工的にフレアを作り出すベリートなどとは、はっきりと違うレンズである。好きな人にはこれがたまらないのだろう。
(下元真佐夫さん。城靖治さん所有の42cm、後期のものと思われる。シャッターがなくレンズキャップ露光だったので、f9より絞り込んでいたと思う)
 このレンズは、触ることができただけでも幸運。数が増えることはないのだから、ますます幻に、ますます名前だけの一人歩きになるのだろうか。いまわたしのまわりでは、レンズを見学しそこなった連中が、やいのやいのうるさいが、再度の遠足は実現しそうにない。神話は神話のまま、そっとしておいた方がいいのかもしれない。