ベス単遊びは病気か

 植田正治に、ベス単で撮った作品群があって、これがなかなかいい。植田といえば、鳥取砂丘での一連のコンポジションが浮かぶが、ベス単の作品では、素直にレンズが作り出す独特の効果を楽しんでいる。おそらく「ベス単フードはずし」である。

 植田は若くして郷里の鳥取に写真館をもち、写真を生業としながら、生真面目に独自の作品を撮り続けたことで知られる。だから「ベス単」のマニアックなソフト画面はいささか意外だ。(写真集「植田正治の純白の抒情」。上が「回想のフランス」から、下が「白い風」から)
 「ベス単」はベスト・ポケット・コダック。ベスト判の単玉レンズつき蛇腹カメラだ。1枚レンズは収差が大きいが、前面に絞りをつけて絞り込めば、ほどほどにシャープな絵が撮れる。コダックはすでにブローニー判でこれをやって、安くてよく写るカメラとして一時代を築いた。ベス単は、それをさらに小型にしたものだ。
◆ベス単で大判は撮れるか?
 しかし、あくまで初心者用だから、写真家が作品を撮るカメラではない。現代の物好きが注目したのはレンズだ。前面のフードによる絞り込みをはずしてしまうと、開けっぴろげになった1枚玉は収差がもろに出て、画面はフレアでいっぱいになる。そのもやもやが面白いというのである。

 ただしカメラは安物だし、フィルムも頼りないというので、実際は一眼レフレンズの鏡胴にはめ込んで、35ミリ判や645判で撮るのが普通だ。確かに近代レンズではこんな写りのものはないから、面白いことは面白い。とはいえ、いってみれば際物遊びだ。下手をすれば、ただのひとりよがりになってしまう。
 植田正治は、画面から見ると35ミリ一眼レフで撮ったようだ。が、さすがは植田で、フレアの効果を実に巧みにつかまえて、見事な作品に仕上げている。ベス単レンズはシンプルだから、カラーの発色も決して悪くない。このあたりの計算が、「ベス単」好きにはたまらないお手本になるらしい。
 友人に好きなのがいて、あるとき「大判で撮ってみようか」という話になった。久しぶりに面白い遊びになりそうだが、さてカメラを何にするか。なにしろベス単レンズは焦点距離が75ミリだから大判は厳しい。手札のフィールドカメラでライカ用のエルマー90ミリを使ったときでも、蛇腹をぴったりと畳んでようやくだった。それより短いのだから、凹みボードをつけないと無限大が来ないことになる。これは面倒だ。
 候補はいくつかあったが、ベルクハイルを手札に改造したものが、よさそうだとなった。レンズ交換式の9x12センチ判に、アメリカの手札スプリングバックがついている珍品だ。レンズ交換のリングの形にボードを作れば、小さなレンズをかませることができる。現物を持ち込んだら、友人はアルミ板を削ってあっという間に作ってしまった。1時間半くらいだったという。(ベス単レンズを装着したベルクハイル。これでやっと無限大)
 このベス単レンズは最初期のもので、ショットのガラスなので性能がいいのだそうだ。そのせいか、初期型はフードのアナが大きく、わざわざ「フードはずし」をする必要はないのだという。アナが小さくなった後期のベス単レンズは、フードをはずすと、絵が壊れて見事もやもやになるのだと。まあ、ご苦労様な遊びである。
◆あてがはずれたピクトリアリズム
 ちょうど世田谷美術館で、フランスの写真家フェリックス・ティオリエの写真展が始まった。「いま蘇る19世紀末のピクトリアリズム」とある。これは面白い。対抗して昔のソフトレンズで美術館と砧公園界隈でも撮ってみようかというアイデアが浮かんだ。ベス単も間に合ったので、「今様ピクトリアリズム」競演をもくろんだ。
 実は、ティオリエ(1842-1914)という名前は知らなかった。そのはずで、彼は生前まったく作品を公開しなかったのだそうだ。子孫が古いプリントを発掘して紹介し始めたのが1980年代で、その後NYの近代美術館やパリのオルセー美術館などで展覧会が開かれて、知られるようになった。ウジェーヌ・アジェ(1856-1927)よりひとまわりほど年上になる。
 アジェだって、作品の記録的な意味合いを政府が認めて買い上げなければ同じだったかもしれない。ジャック=アンリ・ラルティーグも、ただアマチュアとして長年家族を撮り続けただけだった。フランスには、まだまだそんなのがいるのかもしれない。面白い国である。
 しかし写真展は、あてがはずれた。結論から言うと、「ピクトリアリズム」をうたい文句にしていたのが、実はそうではなかったのである。ピクトリアリズムは19世紀末にイギリスからはじまり、アメリカで花開いて1910年代まで続いた写真の芸術運動だ。絵画的な絵づくりを目指して、風景や静物、肖像などを「写真らしくない写真」に仕上げたものである。
 しかし、ティオリエはそうではなかった。作品を見るかぎり、彼はひたすら写真を追求している。まずは家族や友人の肖像があり、パリの風景があり、南フランスの農村や産業、彼が愛したフランスの史跡や自然‥‥そして晩年は始まったばかりのカラー撮影を試みていた。
 撮影年代も多くは「1890-1910」と恐ろしく大づかみ(つまり特定できていない)で、時代的には確かに一致するのだが、意図的に画面を作り出そうというピクトリアリズムの芸術志向とはほとんど正反対。ピクトリアリズムの存在すら知っていたかどうか、そんな感じだった。(ティオリエが使ったフランス暗箱があった。操作の仕方が書いてあったが、実際に撮ったことがない人が書いたようだった)

◆雨の中のもやもや較べ
 会場に展示してあった暗箱カメラは、フランス独特のテイルボード・スタイル。18x24センチ判はアジェと同じだ。これに差し込み絞りのエルマジスのレンズがついていた。形といい造りといい、後に「Chambre de Voyage(旅行カメラ)」と呼ばれるものの原型で、造りとしては湿板カメラに近い。ティオリエが若い頃に使ったカメラかもしれない。
 というのは、フィルムも若干展示されていたが、カラーも含めてどれも9x12センチと小さかった。展示されたものとは別の、おそらくもっと新しいカメラだ。作品はそれを引き延ばしたものがほとんどで、古い大判のシャープネスを示すものは多くなかった。
 しかし、オリジナルのゼラチン・シルバー・プリント168点の迫力はなかなかである。大判らしい肖像写真、スナップに近いパリや旅行先でのショット、南仏の自然を追った光と陰‥‥とにかく意欲的だ。なかに、子どもと一緒にクジャクがいたり、ロバの背中にイヌが乗っていたりする写真があって、はじめは「大判か」とびっくりしたが、フィルムサイズを見て納得したのだった。(フェリックス・ティオリエ展は、7月25日まで)(雨の中、ベス単での撮影。デジカメの方がちゃんと写っている。撮影:大西あけみさん)


 かくて、ピクトリアリズムの対決はならなかったが、ぼけレンズの撮影だけはやった。生憎の雨のなか仲間も何人か来てくれたが、半分はレンズ目当てだった。それもベス単ではなく別のレンズーー幻といわれるピンカムスミスのシンセティックという単玉レンズである。これまで何度か試みたが、あまりのもやもや描写にお手上げだったレンズだ。
 これ、造りとしてはベス単と同じなのである。ただ、ベス単が75ミリで手札にも届かないのに対して、シンセティックは堂々8インチで、5x7(インチ、以下同じ)まで楽々といく。ただし、写りはもやもやで、かのベリートも真っ青。この日は4x5だったが、結果はベス単の方がよほどしっかりしていた。ピントグラスを見ても「ピント来てるかな」「うーん、どうかな」という騒ぎ。雨の中、ご苦労様な話だった。(ベス単の結果。手札の真ん中に丸く写った。Bergheil 9x12cm使用。下はトリミングしたもの。しっかりした絵だ)
◆ぼけレンズ元年
 そもそも1枚玉(メニスカス)は、ダゲレオタイプの時代からのもの、いや正確には、それ以前からあったものをダゲールが使っただけのことである。F16とか暗いものをさらに絞り込んで、長時間露光でシャープな写真を撮ったのである。
 しかし、その絞りをどんどん開いていくと、もとは18世紀に考案された2枚張り合わせの色消しレンズ(アクロマート)にすぎないから、収差がもろに出てくる。フレアは出るわ歪みはあるわで、ひどいことになる。「ベス単フードはずし」と同じである。
 しかしこれがピクトリアリズムの写真家たちに珍重されたのだった。「絵画のような写真を」というピクトリアリズムは、まずは「シャープネスよさらば」である。同じ頃、絵画の世界でも印象派が起こって、「写真のような絵」から決別するのだからややこしい。とにかく人間はへそ曲がりなのだ。
 この需要に応えて、多くのソフトフォーカス・レンズが作られた。その最初といわれるのが、ピンカムスミス(P&S)だった。もとはウイリアム・ピンカムとヘンリー・スミスがボストンに開いたメガネ屋である。
 カメラ用レンズも作っていたらしく、あるとき写真家が、ダルメーヤー・ポートレートを持ち込んで「コピーを作れないか」といってきた。ヘンリー・スミスと技術者のウォルター・ウルフは、コピーではなく独自のソフトフォーカスレンズを作ってしまう。それが「セミアクロマチック」。名前からいって、わざと色収差を残したレンズだったらしい。
 それまでのソフトレンズは、みなラピッド・レクチリネア(RR)かペッツバールの変形、あるいは組み合わせで、いってみれば天然ぼけだった。ところがピンカムスミスのは、意図的に収差を残した点で、まったく違ったものだったという。時に1901年、ぼけレンズ元年である。(幻のP&S Synthetic 8in. F5。ガラスの見える方が後ろ。フランス暗箱Lorillon 4x5に装着)
 おそらく,町の小さなメガネ屋だからこそできたのだろう。すでにテッサーの時代だというのに、技術的には19世紀中頃のレンズを作ったのだから。近代化を目指していた名のあるメーカーには、思いも及ばぬ発想だった。

 P&Sはさらに、「ビジュアル・クオリティー」「シンセティック」など独特のレンズを作り、ピクトリアル・レンズというカテゴリーも生まれた。これに刺激されて、ウォーレンサックやテーラー・ホブソン、フォクとレンダーなどが、独自のソフトフォーカス・レンズを作るのである。前回「かとう写真館」で登場したクーク・ポートレートもそのひとつだ。
 だがP&Sは、ピクトリアリズムの終焉とともに歴史から姿を消す。その詳細はよくわからない。そしてレンズはというと、数がきわめて少ないために、話に聞くばかりで、見たことはおろか持ってるという話すら聞いたことがない「幻のレンズ」だった。(シンセティックの写り‥‥ピントのヤマが見えない。木の枝と葉が奇妙だが、傘の模様だけはっきり。不思議な写りだ)
◆1枚玉の面白さ
 ところが、これが思わぬ手近にあった。いつも機材や知恵で助けてくださっている城靖治さんが、「幻のレンズ」を2本も持っていたのである。

 ひとつは「ビジュアル・クオリティー(VQ)12インチ? F4」という、口径10センチを超える巨大レンズである。構成は2枚張り合わせを対にしたダブレットで、20年後のニコラ・ペルシャイトと同じ。見かけといい写りといい、ニコペルがお手本にしたのではないかと疑っているレンズだ。
 もうひとつが、今回の「シンセティック、8インチ、F5」という外径64ミリの1枚玉である。見かけも奇妙で、後ろに向かって大きく出目金になっている。ベリートと違って、絞り込んでも絵がよくならない不思議なレンズだ。VQがピンカムスミスの代表とすれば、まあ、鬼っ子といっていいかもしれない。
 1枚玉というのは融通無碍で実に面白いレンズである。絞りを小さくすればシャープな絵が撮れて、絞りを開ければ「ベス単フードはずし」にもなる。ただ、ピクトリアリズムの頃の1枚玉は、絞りを開けないような造りが多い。安くてシャープなレンズだったはずだ。
 当時のものがいくつか手元にあるが、完全に開けるのはダゲレオタイプ・湿板時代の1本だけ。これは相当なもやもやにもなるし面白いレンズだ。他のレンズは開放にしても大方シャープで、なかには「エッ!」と驚くほどのものもある。ただし、1枚玉の収差はあるから、ほどほどに周辺が崩れたりして、いまのレンズにはない味わいがある。それをのみこんで、どんな被写体に活かすか、ここが遊びどころになる。
(上は単玉レンズのいろいろ。現代レンズとは大いに違う写りが面白い。左はコダック・ブローニー単玉の写り。後ろのぼけはすごいが、合焦はしっかり。アオリもちゃんと効いている。ディアドルフV5 4x5back、Kodak 110mm)
 面白かったのは、今回のベス単の絵より、植田正治のベス単の方がシンセティックに近いことだった。明らかに「フードはずし」である。ピントの合わせにくさにもかかわらず、フレアの具合を的確につかまえているから、一眼レフは間違いない。
 この画像をみていると、あらためて、シンセティックの使い道が見えてくるような気がする。ソフト志向を考えるうえでも、多くの示唆を与えてくれる。さすが植田正治である。