語りかける写真

 1枚の写真に目が止まった。ANA全日空)のCMだ。テレビでは、「たった2機のヘリコプターから出発した小さな民間航空会社。それが、私たちANAのはじまりでした」とモノクロ動画から始まるが、一瞬だけスチル写真が出る。これが実にいい写真。新聞広告であらためて見た。ますますいい。
 おそらく、日本ヘリコプター輸送の写真だろう。1952年に連合国軍の占領が終了して、それまで禁止されていた日本の航空輸送が復活した年だ。ベルのヘリの前に5人の男たちが並んでいる。小学校の校庭だろうか。はるか後ろに大勢の子どもたちがぎっしりと並んでヘリを見守る。このあと、ヘリは砂塵を舞い上げてふわりと浮き上がったはず。いつか見た光景、感動が蘇る。
◆案外多い「人間嫌い」
 面白いもので、写真をやるなかでも、作品としては人間をあまり撮らない人たちがいる。アートの絵づくりにこだわる向きで、アマも含めて実はかなり多い。そういう人たちには、ANAの写真もただの記念写真。私が好んで撮っている集合写真なんか、間違っても作品だなどと思ってはくれない。

 実際に撮ってみると、そのあたりがよくわかる。「撮りますよ」というと喜んで並んでくれるのだが、記念写真のつもりだと、カメラをかまえて見せたり、Vサインをしたり、プロに多いのだがちょっとすねて横を向いたり、あるいはただお行儀よくしたり‥‥「エッ、それじゃぁみんなそうじゃないか」。そう、集合写真を作品だと思う人なんてほとんどいないのである。
 では、人数が少なかったら? 3人ならどうか、2人なら? 1人ならもう立派なポートレートだが‥‥要するにそれを決めるのは、撮る側と撮られる側の心づもり。人数に関係なく、「作品だ」といったら作品なのである。
 ただ、大勢が写っていると、芝居っ気がありすぎもいれば、ぶちこわし屋もいる。とにかく危なっかしい作品づくりは間違いない。そこで最近は、並び方とかポーズとか、多少手を加えるようにしている。集合写真はもともと「造り写真」だし、その気で撮った方が結果がいい。失敗も減るからである。(「8x10カメラな仲間たち」の写真展で。みんな撮られるのも大好き)
 グループがおかれた状況を、背景も含めてそのまま撮るーーそれが私の流儀(というほどのものではないが)である。これを系統立ててやったのが、アウグスト・ザンダー(1876—1964)だ。彼は、ドイツのあらゆる職業の人たちを、あるがままの服装、状況で撮った。ポートレートによってワイマール時代の社会そのものを記録しようとしたのだった。(写真集「時代の顔」)
 ここまでになるとアマチュアとしてはちょっとつきあいきれないが、ポートレートの手法として追随する人は非常に多い。わたしもそうなのだが、別に真似をしたわけではなく、写真があがってみたら、同じ流れだったということなのだと思う。つまり、自然なのだ。
◆ザンダーの子どもたち
 ザンダーの写真の多くは、見ただけで被写体が何者かがわかる。が、私はむしろ、はっきりしない写真の方が好きだ。有名な「(舞踏会へ向かう)三人の農夫」(1914年)というのは、説明がなければなんの写真だか、見当もつかない。3人の若者がめかしこんでいるのはたしかだが、田舎者丸出しだし、どんな場所かもよくわからない。
 ところがタイトルで「農夫」とわかったとたんに、想像力が刺激されて、様々なメッセージが写真から飛び出してくるのである。何の変哲もない写真だが、撮影が1914年、第一次大戦の始まった年だ。ドイツの片田舎の田園地帯にいたこの若者たちを、どんな運命が待ち受けていたか。ここから、3人の兄弟(?)を主人公に、壮大な物語を組み立てたアメリカの作家もいる。ただし、並の想像力ではないが(リチャード・パワーズ「舞踏会へ向かう3人の農夫」)。(パワーズにとんでもないインスピレーションを与えた「3人の農夫」。ザンダーの代表作だが、写真としてはとりとめがない)
 いわゆるポートレートには、人体をオブジェとして、上半身とか顔のアップで陰影を強調したりする流れと、逆に人間として、空気を伝えるという流れがある。前者にはアマが少ないが、多分ライティングが難しいからだろう。一方後者はプロ、アマを問わず広がりが大きい。いわば、自然な人間写真の系譜である。
 何年か前に、ニューヨークで「ザンダーの子どもたち」という写真展があったらしい。そのポスター(右の写真)や並んだ作品を見てみると、アーヴィング・ペン、ダイアン・アーバス鬼海弘雄リチャード・アベドンなどの作品が、あたかもザンダーに追随したかのように、違和感なく並んでいる。
 いや、追随などではなく、あらためてそれこそがポートレートの王道なのだと、示してくれているかのようだった。だれもが思いつくスタイルで写真を撮った結果が、こうなった。ただじっとカメラを見ている。それが、もっとも自然なポートレートの形なのである。
 ただ、あまりに自然すぎて、アートの部類には入らない、と思う人たちが多いのも事実。とくに日本ではそれが強いようで、ポートレートというもの、写真というものを考える上で、これはいささか気になるところである。
◆女性写真が少ないわけ
 私のネットのアルバムを見た写真の先輩が、「女性が少ないね」と感想をもらしたことがある。その通りで、きれいなネーチャンどころか、汚いおじさんばかりといっていい。女性にはほとんど縁がないのだから仕方がないのだが、それ以上に、知ってるおじさん、おばさんだから撮りたいというのが大きい。いわば、仲間写真なのである。
 カメラ仲間ではよく撮影会があった。プロが若い女性のモデルさんを連れてきて、ライティングを整えてみんなで撮る。これに事務方としてはよくつきあったが、自分で撮影することは滅多になかった。モデルさんはみなきれいだが、それだけではどうも撮影意欲につながらない。「どこのだれだか知らない人を撮ってもねぇ」ということである。
 それよりも、どこのだれさんで、何をしているかもわかっていて、いつも話をしていて、こんな表情や状況で撮ったら面白いな、というところからスタートする方が自然だ。大勢で集まった写真だと、各人の特性は埋没してしまうことが多いが、その中から2人だけ、5人だけと選び出せば、個性の引き出しや再構成は可能になる。
 おそらく、大判という制約から自然にそうなってきたのであろう。小型カメラで表情を追ってガチャガチャと枚数を撮るのとは全く違う撮り方。被写体はオブジェではなく、あくまで人間である。名前もあり、職業もあり、人生があり、わたしとなにがしかの関わりがある人たちなのだ。
 レンズの描写には欲が深い方だから、つるんとしたモデルさんよりも、しわが刻まれた顔の方が面白い。レンズの個性をぶつけることもできるし、背景だって、できれば意味を持たせたい。あらゆる職業人を網羅しようとしたザンダーの意図とは、少し違うことも、これでお分かりいただけるだろう。
◆やっぱりポートレート
 ちょうど東京都写真美術館で、「二十世紀肖像」という写真展をやっていたので、「確認」のつもりでのぞきにいった。サブタイトルが「全ての写真はポートレイトである」と、いささか大仰だが、たしかに、ありとあらゆるポートレートの試みが並んでいた。人間写真がこれだけ並んでいると、なんとなくホッとする。ポートレートこそは写真の原点だと確信させてくれるからだ。
 ザンダーもきちんと一角を占めていた。「3人の農夫」「ボクサー」「菓子屋の親方」‥‥また別のところに、「農家の三代」などの家族写真もあった。無意識のうちに、「大判の写真」「大判でも撮れる写真」「集合写真」を探す。ポール・ストランド、ダイアン・アーバス、ウオーカー・エバンズ、繰上和美‥‥。
 また、黎明期の写真館写真のなかに、いいものがあった。どれも語りかけてくる写真である。しかし、あとになって気がついた。「あれ、アーヴィング・ペンがなかったぞ。アヴェドン、メープルソープは?」。まあ、鬼海弘雄島尾伸三があったから、よしとするか。写真は大判ばかりじゃない。でも、みんな「ザンダーの子どもたち」は間違いない。(やっぱりペンが抜けてはいけません)
 このところ、立て続けに集合写真を撮る機会があったので、いっそう感じたのかもしれない。上に掲げた写真展での記念写真もそのひとつである。8x10で撮って焼いて並べるという集まりで、昨年までは「8x10組合連合会」という面白い名前の会だったのだが、ことしはいっそう数がふえて、大変な盛会だった。
 メンバーの共通点は、「バイテンで撮る」というだけで、スタイルはみなそれぞれ。人間写真もあれば、風景だけという人もいる。レンズで凝ったり、焼きで凝ってみたり、バラエティーが面白い。また、応援団みたいな人たちも大勢いて、でっかい写真を素直に楽しんでいる。
 ちょうど、田中長徳さんやナガオカの長岡啓一郎さんの顔も見えたので、「撮らせてください」といったら、その場にいた人たちも加わって大集合写真になった。こちらは5x7だったから、ちょっと気圧され気味だったが、みな辛抱強く待っていてくれた。結果はご覧の通り。これだけ大判好きがいるというのは、頼もしい限りである。
◆等身大のジオラマ写真
 お台場の「船の科学館」に青函連絡船の羊蹄丸が係留されている。この中に、連絡船の内部や青森駅前の市場を再現したジオラマがある。等身大の人形が沢山いるので、その間にまぎれこんで集合写真を撮ってみたいとずっと考えていた。
 9月の末だったが、「撮られたい人集まれ」と仲間に声をかけたら、何人かが集まった。ジオラマの人形たちは、かつぎ屋のおばさんやお巡りさん、ストーブの脇には寅さん風のお兄さん、赤帽もいればデッキにたたずむ女性、キップを買っている親子連れ、酔いつぶれたおっさんなんかもいる。さあ、そこで本物の人間がどうまぎれこんでどう演技をするかである。
 結論から言うと、みな大根役者ばかりで、そのままでは絵にもなにもならない。ああだこうだいってるうちに、管理の方から、やめてくれという騒ぎになりかけて、結局撮ったのは3枚で、まともに写ったのは上の1枚だけ。むしろ、参加者が一眼レフで撮ったものの方が面白かったりして、面目ない結果に終わったのだった。
 しかし、この遊びは結構大判向きである。三脚の持ち込みも含めて、博物館ときちんと話をすれば、間違いなく面白いカットが撮れる。それよりも問題は役者の方だった。どこに自分を置いて、どう撮られたいか、これがはっきりしないと、絵にならない。つまり、写真師がへっぽこだとただの記念写真にしかならないと、あらためて思い知ったのだった。
 最後の1枚は、わがマンションの塗装工事の職人さんを撮ったものである。あらかじめ描いたイメージ通りに人を配して、「ハイ、動かないで」とスローシャッターでやっつけた。職人さんはみな生真面目にレンズをにらんでくれて、女性は笑顔で、自然でいい感じが出た。
 写真のデジタルデータを事務所に届けたら、さっそくパソコン画面に絵が出た。「データをカメラ屋さんにもっていけば、プリントしてくれますよ」。こうした仕事の現場の写真なんて、滅多に撮ることはないだろうから、いい記念写真は間違いない。それに、いかにもしゃべり出しそうな感じがある。このあと、職人さんたちがちょっと愛想よくなった。
 実は、現像があがって初めて気がついた。「あれ、ザンダーじゃないか」と。「別に、職人さんをねらってるわけじゃないよ」とおかしくなった。そういえば、ザンダーが撮った人たちは、どうだったんだろう。およそ写真には縁のない人たちが大部分である。「3人の農夫」や「ボクサー」たちに、ザンダーはコピーを届けたんだろうか。あらためて気になった。