殿様は写真がお好き

 「朴多瓦刺非」。これ読めますか? 幕末の昔、尾張藩14代藩主徳川慶勝(よしかつ・写真下)が記したメモに出ていたものだ。答えは「ポトガラヒイ(photography)」、そう、写真のことである。といってもまだ明治になる前だから、当然湿板写真だ。これを徳川御三家筆頭の尾張の殿様が、自分で撮っていたのだから驚く。
 慶勝の作品は、山手線目白駅に近い徳川黎明会・徳川林政史研究所に保存されている。研究所は、名古屋の徳川美術館とともに、尾張徳川家300年の美術品、古文書、記録を保管しているが、約1万点あるといわれる写真の中で、いちばん古い1000点が、慶勝が撮った湿板写真だ。
 慶勝が写真を撮り始めたのは、37歳のときだという。まだ、下岡蓮杖や上野彦馬も写真技術をつかまえていなかった。いったいどうやってそれを会得したのか。実は慶勝自身が研究の最先端にいたのだった。
◆歴史の巡り合わせ
 日本で最初に写真に手を染めたのは、薩摩藩主・島津斉彬である。嘉永元年(1848年)、御用商人の上野俊之丞(上野彦馬の父)がオランダからダゲレオタイプ一式を輸入し、翌年斉彬に献上した。
 薩摩は鉄砲、製鉄、造船、火薬、ガラス製造から電気・電信の実験までするほど、時代の先端技術・情報吸収に貪欲だった。斉彬は家臣の市来四郎らに研究させ、自らも手を出しているが、まだ化学薬品の知識もない時代である。結果を出すまでに結局8年を要した。しかし、1857年に撮影された斉彬の肖像は、日本人の手による唯一の銀盤写真として、いまに残る。(左下)
 この間に、来航したペリー艦隊やロシアの艦隊の写真師が、日本各地で実際にダゲレオタイプを撮影してみせたために、姿や景色が鏡のように写る「印影鏡」として大変な話題になっていた。といっても、むろん一般庶民のものではない。真っ先に関心をもったのは各地の大名たちだった。
 なかでも水戸藩徳川斉昭は、家臣を薩摩や長崎に派遣して技術を学ばせるほどの、熱の入れようだった。斉彬もまた、斉昭に宛てた手紙に「鏡ニヨヂューム(沃素)之気ヲウケサセ‥‥影ヲウツシ夫ヨリ水銀ノ蒸気ニ当テ‥‥」などと、技術的なことまで書いている。これも相当な入れ込みようである。
 実は斉彬は、藩主になる前から、斉昭のほか尾張徳川慶勝、土佐の山内容堂、越前の松平春嶽らと親交があった。いわば改革派若手リーダーの情報ネットワークで、彼らは、日米修好通商条約の調印と将軍後継で幕府に異を唱えたため、安政の大獄安政5年、1858年)で一斉に謹慎処分を食らう。
 徳川家定に養女篤姫を嫁がせていた斉彬は、将軍後継で一橋慶喜を推していた。大老井伊直弼紀州徳川家茂を立てたのと大獄に抗議して、兵を率いて上洛する準備に入ったが、その最中に急死するのである。一方の井伊は安政7年(1860=万延元年)、桜田門外の変で、水戸、薩摩浪士に暗殺され、歴史の歯車がひとつ回った。
名古屋城研究所は最先端
 狩野派の絵師であった下岡蓮杖が、訪れた薩摩藩江戸屋敷銀板写真を見て、写真に転じたことはよく知られている。彼が学んだのは湿板写真で、横浜のアメリカ人ウンシンからだった。一方の上野彦馬は、長崎の海軍伝習所で化学を基礎から学んでいる。その過程で蘭書の中に見つけたのが「朴多瓦刺非」で、これも湿板だった。2人がそれぞれ試行錯誤の末に写真館を開くのは、文久2年(1862年)である。

 ところが慶勝には、文久元年9月の肖像というのがある(写真右)。写真研究では、彦馬らとほぼ並行していたことがわかる。なにしろ殿様だから、やることが徹底していた。側近や洋学者を動員して技術書、研究書の翻訳から、撮影に必要な薬品の知識の研究をする一方、島津、水戸など大名間の情報交換も盛んに行われた。政治情報ネットワークが、写真の方でも役割を果たしたのだから面白い。
 「朴多瓦刺非」は、彼の研究グループが書き残したメモに出てくる。慶勝は殿様ルートに限らず、長崎や横浜、大垣などの情報も直にとっていたようで、「彦馬法」「横浜口金液法」などという記述もある。実験もやっていた。名古屋城の中にけっこうな研究所があったわけだ。(右・慶勝らが残した写真メモ「真写影鏡秘伝」の一部。原文は毛筆である)
 また、機材(カメラ、レンズ)なども、御用商人を通して直に輸入していたようで、「英国江注文致候へハ六ヶ月二して参着の由」などのメモも残っている。技術的にも、名古屋城のレベルは相当なものだったらしい。化学知識もなしに、手探りで薬品をいじっていた下岡蓮杖よりは、数段上だったかもしれない。
 当時殿様より偉いものといえば、皇室と神社、仏閣を除けばカメラしかなかったから、殿様がカメラを持ったら向かうところ敵なしである。家老だろうが何だろうが、「それへ直れ」で済む。「動くでないぞ」のひと言で被写体は凍りつくから、湿板どころかダゲレオタイプだって撮れてしまっただろう。こんな楽しいことはない。
 現に、そうして撮った家臣の井出重光という人の肖像が残っていて、NHKの特集に出ていた。子孫の女性が祖父から聞いた話というのが面白い。あるとき慶勝にいきなり「それへ直れ」といわれて、首をはねられるのかと思ったら写真だったのだと。その写真は、当人にくだされたコピーしかないらしく、残念ながら研究所には残っていなかった。
◆謹慎で生まれた写真の時間
 徳川慶勝は、美濃高須藩松平家の出である。御三家筆頭の尾張藩は長年江戸からの養子が続いて、藩主の浪費で藩の財政が傾いていたのを立て直す必要があった。そこで、見込まれたのだったが、江戸派との間で結構すったもんだがあった末の養子入りだった。
 しかし、彼は持ち前の几帳面さを発揮して、いまでいう「緊縮」と「事業仕分け」に自ら取り組んで、7年で財政再建に成功する。その実績から「改革派」と目され、島津斉彬徳川斉昭らと親交を結んだが、尊王攘夷だった彼らの幕府への口出しが増えたために、安政の大獄となったのは皮肉だった。家督実弟徳川茂徳(もちなが)が継いだ。
 しかし、お陰で写真研究の時間が生まれたのだった。慶勝は、名古屋城の内外を撮りまくった。本来秘中の秘である名古屋城内の造りでも室内の様子でも、隠密の手にでも渡ればともかく、殿様のやることに家来が文句をいえるものではない。
 当時のカメラの威力たるやたいしたものだった。後に明治天皇御真影を撮った写真師内田九一が、天皇の姿勢を正すためにうっかり頭に触れてしまった。天皇の体に触れるなぞ許されないことだが、天皇は「咎めるに及ばず」といったという。カメラは天皇も一目置く存在だったのである。

 しかし、慶勝の写真三昧の日々は長続きしなかった。文久2年(1862年)に謹慎がとけると、将軍家茂の補佐、また尾張藩主に実子の義宣が就いたため後見役。元治元年(1864年)の禁門の変のあとの長州征伐では、征討軍の総督を勤めている。参謀は西郷隆盛だった。慶勝は幕府の方針に反して長州の恭順を受け入れ、第2次長州征伐には反対した。これが慶勝の兄弟の命運を分けた。
 慶勝には「高須4兄弟」といわれた兄弟がいた。左の写真・右端の慶勝から左へ順に、一橋家入りから尾張を継いだ茂徳、会津藩主の松平容保(かたもり)、桑名藩主の松平定敬(さだあき)だ。会津の容保は京都守護職、定敬もまた京都警護にあたり、一橋慶喜とともに、禁門の変鳥羽伏見の戦いを戦った。
◆時代に引き裂かれた四兄弟
 しかし、長州征伐のあと薩長連合ができて、形勢が大きく変わる。長州は一転、尊王派が力を持ち、薩摩の西郷もこれに加わっている。朝廷を後ろ盾にした官軍は、鳥羽伏見の戦い(慶応4年1月)で徳川勢を破り、敗れた容保、定敬は江戸へ逃げた。追撃の官軍は、東海道中山道を進軍するかまえ。沿道はすべて徳川方の諸藩だ。戦になれば泥沼になる。
 ここで、分岐点にあたる尾張藩がどう動くかが焦点になった。すでに前年に大政は奉還され、徳川幕府は終わっていた。慶勝は上洛して新政府の役職、議定(ぎじょう)に任ぜられていたから、諸藩は慶勝へ手紙を送って、戦はしたくないと訴えた。慶勝は新政府軍に従うと決め、43の藩が一斉にこれに従って、流血は避けられたのだった。
 しかしこれで、弟2人は逆賊となった。慶勝の誤算は、無血で江戸に入った官軍が、さらに北へ攻め上ったことだった。会津若松城にこもった容保は、歴史に残る激戦の末に降伏。さらに北へ逃れた定敬も函館で捕らえられた。慶勝は、弟2人の助命に奔走する。なんとも数奇な巡り合わせだった。
 慶勝は明治3年(1871年)名古屋藩知事になるが、半年で辞め、明治4年廃藩置県で、名古屋城も引き払う。この頃慶勝はまた、写真に戻っている。名古屋城空堀、城内、修理のため地上に降ろされた金の鯱とか、いまとなっては貴重な最後の名古屋城のいろいろな光景が残っている。また、東京に移ってからも、隅田川のあたりの風景や人々を湿板に残した。
 明治8年に、実子の義宣の病死を受けて再度当主に就いた(17代)が、そのあとの明治11年に4兄弟が銀座で会合して、一緒に撮ったのが上の写真である。激動の幕末をそれぞれに生きた兄弟が、いったいどんな話をかわしたのか。この年はまた、尾張藩士の北海道開拓が始まった年で、慶勝はこれを指導している。が、2年後に隠居。さらに3年後の明治16年に死去した。60歳だった。
◆写真好きのDNA?
 慶勝の死後、慶勝が撮ったとみられる会津若松城の写真がみつかった(上)。砲撃で穴だらけになった無惨な姿である。いつ撮ったものか。わざわざカメラをもって会津まででかけていたのか。運命の皮肉とはいえ、弟容保の無念を形にとどめたいと思ったのか。気持ちをうかがい知ることはできないが、歴史的にも貴重な1枚である。
 慶勝が亡くなってしばらくして、最後の将軍徳川慶喜実弟で最後の水戸藩主だった昭武が、そろって乾板写真を撮り始める。2人は、かつて島津斉彬銀板写真に並々ならぬ好奇心を示した斉昭の息子だ。写真好きのDNAが伝わっていたのか、これも面白い巡り合わせである。
 1889年(明治22年)、昭武が松戸に作った戸定邸慶喜が初めて訪れたとき、江崎礼二が呼ばれた。日本で最初に乾板を使って隅田川水雷写真(左上)を撮って、「動くものを撮った」「早撮り礼二」ともてはやされた写真師だ。2人はこれに触発されたらしい。すでに乾板である。カメラも進歩して、秘伝のワザは要らなかった。
 慶喜の場合は、「幕府を潰した」という責任感から自ら謹慎していたのだが、ここでも謹慎という時間が写真に向けられたのだから面白い。彼は、当時住んでいた神田や静岡の別邸を中心に、当時の風景や側近の人たちを撮った。ステレオ写真まで試みている。

 中に、九段の靖国神社大村益次郎銅像を撮ったものが何枚かある。大村といえば、いうまでもなく日本陸軍創始者だが、官軍の総大将として寛永寺に立てこもる彰義隊に大砲をぶっ放した男だ。慶喜はいったいどんな気持ちで撮ったのだろう。また道行く人も、暗箱で撮っているおじさんが、先の将軍サマだと知ったら、腰を抜かしたかもしれない。(慶喜が撮った大村益次郎銅像。100年以上経ったいま周囲の樹木は銅像より丈が高い。松戸・戸定歴史館所蔵)
 一方の昭武は戸定邸の周辺や旅先で実に意欲的に撮っているが、几帳面に撮影メモを残している。日時、場所、シャッター、絞り‥‥写っている写真の光線の具合から、当時の乾板の感度がわかる。だいたいASA10から12くらいで、けっこう撮りやすかったようだ。華族・士族の写真クラブみたいなものもあって、慶喜も昭武も大いに活躍している。
 これに較べると、慶勝の湿板写真は難しさもけた違いだったはず。カメラ、ガラス板、薬品を持ち、簡易暗室も必要だった。機材を運ぶだけで、人夫やカゴが要る。名古屋城でならともかく、殿様でなくなったあとに、どうやって会津若松までいったのか。しかも、残っている写真はたった1枚だけである。
 実は慶勝のメモで、いちばん見たかったのは、露光時間だった。当時すでに西洋式の時計はあったにしても、「秒」という単位が実用になっていたのかどうか。しかし、目を通すことができたレジュメでは、その記載はなかった。
 とはいえ、カメラを前にレンズキャップをはずして、「ひい、ふう、みい」と時を数えていたのは間違いない。肖像では謹厳実直そのものの慶勝が、そうして数えている様を思い浮かべると、何とも微笑ましい気分になる。
 (徳川慶勝関係の写真・資料=上から1、3、4、5、6=は、いずれも徳川林政史研究所所蔵)
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 会津若松城の写真について、下のようなコメントがありました。会津若松市のHPにある「蘇る鶴ヶ城」のなかに、3枚の写真が出ていて、うちの1枚が上に載せた写真と同じです。そして「小山弥三郎という写真師が撮ったものだ」「小山弥三郎ではないかもしれない」という2つの見方が示されています。どうやら徳川慶勝が撮ったものではないようです。これが古写真探求の面白さでしょうか。ご参考まで。
 http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/fukugen/fuku03.htm
 http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/fukugen/fuku22.htm