四面楚歌

 ヨドバシカメラで、キャビネの現像を頼もうとしたら、「4x5(インチ、以下同じ)より大きいものは受けてません」という。「何いってんだ。あそこの棚にあったフジのフィルムだよ。こないだまで現像を受け付けていたじゃないか」といったのだが、現像所に電話したりして、結局ダメですという。

 「現像所が変わったの?」「いえ、変えてません」。料金の一覧をもってきたら、「キャビネ 中止」とあって、「4月1日現在」とある。おいおい、間違いなくそれよりあとに現像を頼んでるよ。いえ、ダメなものはダメですと。店が売ったフィルムだというのに、なんともむちゃくちゃな‥‥幸いまだ、現像してくれるところは別にあったのだが‥‥。
◆さらばイギリスサイズ
 たしかに、キャビネにしろ手札にしろ、頼むたびにすったもんだしてはいた。とにかく持ち込む都度、店員が「これは何ですか?」というのだから、もう長いことご臨終間近ではあった。それがいよいよ現実になってきたのである。
 まずはフィルムだ。フジが先頃、イギリスサイズのキャビネ、手札を切るのをやめたと聞いたので、あわてて確かめてみたら、やめたのは11x14で、キャビネ、手札はとうの昔にやめているのだという。ヨドバシで売っていたのは、写真館用に出していたものの残り、ないしはヨドバシがまとめて切らせていたものらしい。
 日本の写真館は、戦前からイギリスサイズが標準で、フジが長年キャビネ・手札を作り続けてきたのも、写真館の需要のためだった(上の写真は、昭和20年のわが国民学校の記念写真。学校は7月の空襲で焼けてしまったが、キャビネの密着焼きはちゃんと残った)。ところが、その写真館がどんどんデジタル化してしまったのだから、あとは推して知るべし。現にしばらく前から、ヨドバシのフィルム棚が心細くなって、新宿で最後にひとつあったキャビネの箱を買ったのが、夏頃だった。
 その後しばらくタグだけが残っていたが、それもなくなってしまった。そして、現像の方も「中止」と、両面から攻めてきている。本家がとっくの昔につぶれたあとも、東洋の果てで営々と続いたイギリスサイズも、いよいよ落城となるのか。
 これもまあ、仕方がないのかもしれない。キャビネのフィルムで撮っているという話は、わたしの周囲の友人以外は聞いたことがない。それでも、キャビネのカメラは数が多いし、5x7の撮り枠流用もあるから、物好きはまだいるだろうという気もする。だが手札となると、実用になるカメラが、スピグラくらいしかないのだから、まさに絶望的だ。フジを責めてもはじまるまい。(左:友人自慢のロータス・エランをイギリスサイズで‥‥キャビネは縦横のバランスがいい)
 しかし、それだけではすまなかった。今度は、デジタルでの読み込みまでがおかしなことになっていた。
◆目からウロコ
 このところ、現像したフィルムは、キンコーズに持ち込んでデジタル化していた。A4版のフラットベッド・スキャナーに、何枚か並べて一気に読んで、手早く仕上げると10分内外でメモリチップに収まったのだったが、10月に行ってみたら、スキャナーが全部35ミリ判用に変わっていた。
 「どうしたの?」「新型に変わったんです」「前の機械はそこらに置いてないの?」「リースですから、みな持って行ってしまいました」「じゃあ、他の店は?」「同じです」。一カ所くらい古いままのところがないかと聞いてみたが、見事になかった。
 「なんだよ、スキャナーを買えということか。高いスキャナー買う金がないからここへくるんだろうに」といっても始まらない。大判なんか読み込むのが悪いといわんばかり。(下:秋祭り 5x7の撮り枠にキャビネフィルムで)

 いまはもう町の写真屋さんでも、デジタルのいろいろなサービスをやっているから、ひょっとして、と探してみた。ようやくひとつ、芦花公園駅の近くーーいつもイヌの散歩で前を通っている写真屋が「できます」という。小さな店だが、外注ではなく自前でCDに読み込むらしい。料金は高めだが、まあ、緊急避難にはなりそうだ。
 そうこうするうちに、知り合いのカメラマンが、「スキャナーなんかいらない。ライトボックスに乗せてデジカメで撮って、反転すればいい」といっていたのを思い出した。試しにライトボックスに5x7のフィルムを乗せてコンパクトデジカメで撮ってみたら、あーらら、ちゃんと出てくるではないか。
 これが面白い展開になった。ヨドバシとキンコーズへの恨みやらデジカメ撮影のいきさつをmixiで並べたてていたら、マイミクの1人が、「フラットベッドにライトボックスを乗せると、フィルムの読み込みはできます」という。「エーッ!」である。
 透過原稿(つまりフィルム)を読み込めるスキャナーは、フラットベッドのフタに光源があって、高級な高いもの、プロが使うものだと思い込んでいた。現に某所でたまに使わせてもらっていた機械は、とてつもなく高いものだった。だが、この友人によると、光源はライトボックスでも、あるいはアクリル版かすりガラスを乗せて上から光を当てれば、原理は同じだというのだ。まさに目からウロコ。
◆無頓着の報い
 わたしが使っているスキャナーは、初期のフラットベッドだ。反射原稿にしか使えないと思っていたのだが、確かめてみると、透過原稿用のユニットを乗せることができるのだった。そこで友人の言に従って、ライトボックスを乗せてみた。
 専用のユニットではないからフィルム用のオプション操作は機能しない。そこをかまわず、反射原稿の読みをやってみたら、ネガの画像が鮮明に出るではないか。明らかにライトボックスの効果だ。そこで反転すると、苦もなくデジタル化ができたのだった。(左:大坂純史さん。Bergheil 9x12でアメリカ・手札)
 それが完璧かどうかは、また別の話。デジカメで撮っても、このブログで使える程度には出る(下の写真左)のだが、それよりかなりいいのは確か(同右)。デジタル技術の凄さに感動すると同時に、知らないとはなんと恐ろしいことかと、あらためて思った。
 高い値段のフィルム用スキャナーを使っている人たち(ほとんどがプロ)でも、その装置がライトボックスやすりガラスと実質変わらないのだと、はたして知っているだろうか。メーカーは、ユーザーの無知をいいことに、さも高級品のように売っている‥‥まあ、世の中とはそんなものであろう。

 かくて大判フィルムの読み込みは、なんとかめどがたったのだが、全てよしとはならなかった。テストを繰り返していると、どうもキズが多い(上の右写真とその上の人物写真)。ネガを見てもそんなキズはない。なんと、スキャナーのガラスの表面のキズがもろに出てしまうのだった。こんなにキズが?といぶかったが、よく見ると確かにある。
 そう乱暴に扱ったつもりはないのだが、「ガラスだから」とティシューかなんかでゴシゴシやったせいであろう。フィルムを浮かしてみたがダメ。反射原稿ではこんなことはなかったのに、フィルムはやはりデリケートだ。こうなれば入念に場所を選んでフィルムを置いて、最後はスポッティングしかない。無頓着の報いである。
 それにしても、デジタルの威力はたいしたものだ。プリントをあきらめてしまった(暗室と縁が切れたのと、プリントが多すぎて増やさないことにした)から、なおのこと感ずるのかもしれない。photoshopの操作は、暗室作業に較べると待ち時間ばかりで辛気くさいが、焼き損じはないし、トーンを整えるのもスポッティングもはるかに楽にできる。あがりがどうのこうのとなっても、いざとなればフィルムがあると、これが最後の拠り所である。
◆サイズをうろうろする楽しさ
 だから、そのフィルム自体が危うくなってきたとなると、話のそもそもがひっくり返ってしまう。デジタルもへったくれもない。フィルムがなければ、大判の世界は終わる。これまでも、大陸判はとうの昔にフィルムが終わっていたから、かっこいいフランスカメラも、やむなくアメリカサイズに変換していた。そして今度はイギリスサイズか。
 しばらく前の「禁じ手は自由の証」で書いたように、わたしの大判作法は、端からアメリカサイズへの変換をにらんだ、いわばいかがわしいスタートだった。いってみれば、いつ大陸サイズやイギリスサイズが終わっても、さっさとアメリカサイズに逃げられるのである。まあ、5x7だけはフィルムがちょっと不自由になってはいるが‥‥。
 しかし、お読みいただいておわかりのように、この連載の重要なポイントは、オリジナルの機器をそのまま使って、50年100年前の同じ撮り方で撮る、そのスリルと危うさを楽しむことなのである。ただ大判を遊ぶのとはちょっと違って、わがままでへそ曲がり。でなければ、わざわざ変なフィルムサイズをうろうろしたりはしない。
 そのうろうろが楽しいのだ。とくにイギリスカメラの木の香り(別に匂いはしないが)、工作と塗りの美しさ、頼りない金具の融通無碍、木製三脚の面白さ、バレルレンズの輝き、ソーントンシャッターの手加減(いい加減)、木製撮り枠は油断すると光線漏れもある‥‥これらの一つひとつが、カメラというものの原点への旅、昔の写真師と競い合う面白さにあふれているのである。(上:福田文昭さんの写真展で。純イギリス式の手札撮影。Sanderson Field 1/4)
 この遊びを支えてくれていたのが、フジのキャビネと手札フィルムであり、ヨドバシカメラだった。だというのに、なんたること。時代の荒波は理不尽すぎるではないか。だれかれかまわず噛み付きたくような気分である。「オレの楽しみをどうしてくれる」
 幸いなことに、手持ちのフィルムはまだ底をついてはいない。どころか、まだかなりある。せめてこの間に、イギリスサイズのあれやこれや、フィルムを詰めて撮り歩いてやろう。そういえば、木製三脚もしばらく使っておらず、撮り枠もあくびをしていた。イギリスレンズもご無沙汰、ソーントンシャッターはまだ動くだろうか。
◆やっぱりアメリカか
 ん? ということは、このところイギリスサイズはずっとアメリカ変換カメラで使っていたのか? アメリカのスプリング・バックは便利だからねぇ。これは面目ない。次の機会には、必ず、必ず。ちょっと面倒くさいが、純イギリスでいくとするか。
 要するに、こういうことなのである。撮影に出る時、ついつい便利で扱いの楽なカメラに手が伸びてしまう。となると、アメリカ式だ。キャビネでも手札でもフランスサイズでも、わたしのカメラはみなアメリカ式で撮れるようになっている。そもそもその「禁じ手」から始まっているのだから仕方がない。
 いまいちばん出番が多いのがイギリスの無名フィールド(キャビネ)で、一度車にはねられてバラバラになったのを、修復したときにアメリカの5x7に変換してしまった。5x7の撮り枠には、キャビネを装填できるものがあるので、これが5x7、キャビネのメインになっている。理由は簡単、ディアドルフ5x7よりはるかに軽いのである。(左:日本橋で。No name British Field 1/2, Emil Busch Aplanat 下は、このキャビネ判を5x7に変換する仕組み)
 また、ベルクハイルの9x12センチ判(大陸の1/4サイズ)は、バックが手札のスピグラ用スプリングバックがついているから、これもアメリカ。フランスの暗箱も、ディアドルフの4x5バックになっているから、半分ディアドルフなのだ。
 純イギリスタイプは、ソーントンピッカードのキャビネと手札、日本製のキャビネとフルサイズがあるが、どれも木製撮り枠だから、ちいと面倒だ。とくにフルサイズはフィルムがないから使ったことがない。別のフルサイズは、8x10に変換してしまった。
 こうして書き出してみると、あらためてアメリカの規格と合理性が、大判を支えてきたことがわかる。世界中から入ってくるカメラを、アメリカ規格のバックとフィルムで使えるように工夫するのは、ディーラーの仕事だった。また輸出でも、イギリスや大陸の規格に合わせて様々な工夫が凝らされた。そうして作られた「付け替えバック」や「撮り枠」なんかが、いまもeBayなどで売られているのだから、アメリカ人の懐の深さには、ただただ脱帽である。
 ただ、いまとなってはさすがに、そうした機材の使い方やフィルムサイズをわかっている人は少ないようで、扱いは大方がらくた同然だ。先のスキャナーではないが、知らないというのは恐ろしい。お陰でわたしは安く遊べているわけだが、わたしの「禁じ手」の時代は、案外早く来るのかも?という予感はある。
 ところがその矢先に、とうとう5x7フィルムの手持ちが切れてしまった。するとまたキャビネとなるのだが、フジの事情は前述の通り。まさに四面楚歌である。いったいどうなることやら。イギリスカメラの命脈もほどなく尽きてしまうのだろう。なんとなく寂しい年の暮れになりそうである。