気を写す

 銀座に今もある有賀写真館の創業者、有賀乕五郎(とらごろう)の「気を写す」という話がある。写真館を訪れたところ、有賀が「今日はお顔の色がすぐれないようですから、差し支えなければ、日をあらためた方が‥‥」といった。そこで、別の日に顔を出したら、「あ、今日のお顔はよろしい」と撮影してくれた。
 聞けば、「気」というものがあって、有賀はその「気」を写しているのだといったそうだ。竹田正一郎さんが「祖父から聞いた話です」という。
 確かに人間だれしも、日によっていいとき、悪いときがある。理由はなんであれ、やはり顔に出るのだろう。有賀はそれを見極めて撮っていたらしい。たいしたものである。その有賀の作品が、東京都写真美術館の「ポートレート」展にあった。「本郷夫人」だったか、子どもを抱いた母親の実にいい感じのポートレートだった。それにしても、「調子のいいときにおいでなさい」とは、何と優雅なことか。
◆もし「気」がなかったら?
 似たような話は、ナダールも書いている。ナダールは技術的にきわめて不自由な湿板写真だった。光線が弱い夕方に来た客に「もう、撮れない」といったら、「それでも撮れ」ともめたというのだ。こちらも、いい結果を出したいという写真師の矜持だったろう。
 湿板写真こそは、撮られる側が生半可だと、絶対にいい結果は出なかったはず。なにしろ何秒という時間じっとしている必要があった。客は常に「気」にあふれて乗り込んで来たはずだが、暗いと写らないのは道理だ。
 同じようなカメラ、レンズは使っていても、いまは高感度フィルムだから、明るさの方はなんとかなる。しかし、写真があまりに当たり前のものになっている現代人は、ともすれば「気」というやつが抜ける。「はい、並んで」といわれて、とりとめもなく集まったら、大方抜け殻みたいな案配だ。カメラをキッとにらみ返す人は数えるほどしかいない。
 どころか、なまじストロボに慣れているからか、多少動いても大丈夫だなどと思っている人がいる。わずか5分の1秒、10分の1秒を我慢できない。現像があがって、動いているのを見たときの脱力感は、「この野郎」以外にいいようがない。
 その典型例をお見せしよう。以前「語りかける写真」でも触れた、東京湾・お台場にある青函連絡船「羊蹄丸」のジオラマで撮った1枚である。沢山ある等身大の人形に人間がまぎれこんで遊んでみた、そのうちの失敗作だ(上の写真)。
 一応電話で、三脚を立ててもいいかと確認はしてあったのだが、船の係の人はそれを知らない。三脚イコール迷惑、という例の方程式に従って、神経をとがらしていたらしい。船内は意外に暗く、用意したストロボの発光がうまくいかず、ああだこうだとやっているうちに、管理人が私の後方から止めに入って来たらしい。そこで被写体がそれに答えようとしたとき、シャッターが切れた。
 私にいわせれば、シャッターの瞬間に動くなんぞは言語道断。文句をいわれるのはカメラマンである私なのに、被写体がうろたえてどうする。動いたら万事休す、という緊張感がない。「気」がないからこうなる。ついでにいえば、いまや貴重品であるフィルムをムダにしやがって‥‥まあ実際は、そのあと被写体の人たちがしきりに謝ってくれたりしていたのだが‥‥。

◆記念写真の面白さ
 実をいうと、その以前にこのカッとは失敗だった。私が手を抜いて、立ち位置、ポーズを各人のお任せにしていた。これがモデルや俳優さんなら、自ずと居場所を定め自分を出すのだろうが、普通の人たちは、何をしていいかわからなくなったのである。ひとり笑っている豪傑がいるが‥‥偶然の面白さをねらうというのは、慣れない人たちには過ぎた注文だった。
 しかし、1人2人の「気」が、全体を引き締めるということもある。左の1枚は、カメラ仲間のモデル撮影会の折の記念写真だ。古い写真で、私もただ並べて撮るだけという時期のものだが、記念写真の面白さを初めて実感した記念すべき1枚である。
 現像があがって、普通の写真とちょっと違うことに気づいた。何が違うんだろう。中央の女性2人はモデルさんである。うちの1人が半身にかまえてキッとカメラをにらんでいる。これだけで、写真の雰囲気が大きく変わる。それともう1人、床に寝転んだのがいた。誰が見ても面白い。これでこの写真は、ただの記念写真ではなくなったのだった。
 モデルさんのポーズは、職業柄かもしれない。これだけの人数の中で、見事な自己主張だ。寝転んでいる男はプロのカメラマンだが、巧まざるユーモアを発揮した。足が画面からはみ出たところなんぞは、おそらく計算外だろうが、これがまたいい。
 いってみれば、あとの人たちはただそこにいるだけ。だが、2人の演出のお陰で、みんなが「気」を発しているような案配である。当時は「気」などというものを考えもしなかったが、「集合写真は面白い。共同作業なんだ」と奥深さを感じた、これが最初の1枚だった。
 こうした結果を出すのは、実は容易ではない。みんながおとなしく並んでいれば、ただの記念写真だし、あちこちでパフォーマンスを始めると収拾がつかず、プリクラ写真になってしまう。といって、あまりにああだこうだとポーズを決めるのにも抵抗がある。被写体との間合い(知り合いかどうか)もある。そのほどほどが、実に微妙なのだ。
 しかし、あまりにも失敗や記念写真が続くと、アーヴィング・ペンにでもなったつもりで、ビシッと構図を決めて撮ってみたくもなる。ところが被写体はいつものお仲間だから、なかなかうまくいかない。こちらの意図をしっかりと伝えて、それに応える演技力も必要になる。ペンになりきらないと、役者も動いてはくれない。つまり試されるのは、こちら側の「気」というわけである。(ペンの「ペルーの子ども」。たかが子どもから引き出した「気」と、ペン自身の「気」に圧倒される)
◆1対1の気分がカギ


 よくしたもので、はじめから「気」を持っている人というのはいる。こちらにしてみれば「撮りやすい」人たち。撮った数は多くはないが、外国人はなぜかみなそうだ。いさぎよいというのか、シャッターの瞬間に、自然に心穏やかに自分を出してみせる。結果は常に良好だ。(左・フランス人のギヨーム)
 日本人は多人数になると、とかく個が埋没してしまうことが多いのだが、外国人は人数が多くても変わらない。おそらく、カメラと1対1という気持ちを持ち続けるのだろう。日本人でも、明治のころはそうだった。大勢いてもみな自分を出している。並び方や足の置き方など、ちょっとづつ人と変えてみたり‥‥。
 しかし、それから100年以上が経って、日本人は子どもの頃からあまりにも沢山の集合写真を撮られ過ぎたのか、記念写真といいうとさっさとお行儀よく並ぶし、個を埋没させる。国民性なのか、現代病なのか。それをはね返したのが「プリクラ」だが、今度はVサインばかりときたもんだ。その落差があまりに大きすぎるのである。
 これが1人ポートレートとなると、だれでもまともになるから不思議だ。とくに、大判写真に無縁だった人ほど、素直でストレート。左は駅前のガラス屋さんのご主人だ。乾板の撮り枠にフィルムをセットする必要からガラス板を切ってもらった。仕事場の雰囲気がよかったので、あらためて出かけて行って撮った1枚である。
 ただじっと座ってカメラを見つめている。それだけ。これがポートレートの原点であり、全てはここから始まる。もう少し仕事場の雰囲気を取り込みたいとなれば、横位置にするとか、上半身にするとか、小道具を持たせるとか。そこから先は、撮られる側のつもり、つまりは「気」になるのだろうが、1対1なら概ね自然体でいい。
 このガラス屋さんはその後、改装して店がなくなってしまった。ご主人とは時折、イヌの散歩の折に近くの公園で顔を合わせるが、この1枚はきっといい思い出になったと思う。
 仕事場をいっぱいにしたために、ご本尊がやや引いてしまったのが、早田カメラの早田清さんの1枚だ(右)。早田さんはいつも素直に受けてくれる。そのくせいつもちゃんと「気」があって、これまで1枚も失敗がない。これは珍しいことだ。まあ、このカットについていえば、もう少し早田さんをライトアップすべきだったが、それはこちらのドジである。
◆1枚こっきりの醍醐味
 おかしなもので、小型カメラでポートレートを撮るときには、「気」だの何だの考えもしない。「あ、ダメだな」と思えば、チャッと巻き上げてもう1枚、で済むからだろう。これが、デジタルになるともっと粗雑で、撮ったとたんにモニターで確認して、動いてさえいなければ「これでいいや」とまことに即物的だ。
 撮られる側もとうの昔にその気分だから、「あ、いま動いちゃったから、もう1枚」なんて平気でいう。フィルム代がかからないというのは恐ろしいもので、じゃかじゃか撮るのを何とも思わなくなる。おかげで1枚の値打ちは紙のように薄くなった。写真は全く別のものになったのである。

 写真の値打ちが下落したからだろう、撮影そのものも、そそくさと済まさないといけなくなった。日本はカメラの国だから、そこら中でカメラ(ケータイも含めて)で撮っているのだが、ジーッという音ひとつで終わらないといけない。はい、あっちでジーッ、こっちでジーッ‥‥。
 前述の「羊蹄丸」ではないが、1カ所で三脚立ててじっくり、というのは嫌われる。「邪魔だ」「迷惑だ」、はては「三脚は危険だ」というのまであった。江戸東京博物館でもめたことがある(わざともめることにしている)。「なぜだ」と問いつめた結果がそれだった。東京都の施設はみなそのマニュアルで動いているのだと。開いた口がふさがらないとはこのことだ。
 また、写される方もそうなっているから、「邪魔にならないように」と気配りが入る。こちらがまた、歩道だの踏切の真ん中だの、妙なところで撮ろうとするもんだから、一緒にいるカメラ仲間の中にまで、「もうちょっと脇へ寄った方が‥‥」なんて心配するのが出てくる。やかましい。私にいわせれば、そんなヤツは「裏切り者」だ。「ブルータス、お前もか」
 こんな風潮だからこそ、1枚にこだわりたい、「気」を引き出したい、勝負したいと思う。レンズにもこだわりたい、カメラも選びたい。暗箱かついで、三脚もって、店を広げて1枚撮るまでに10分15分‥‥不自由はこの上ない勲章ではないか。しかし、わかってくれる人はどんどん少なくなっている。(竹田正一郎さん。竹田さんはいつも「気」にあふれている)
◆暗箱大明神復活宣言 
 結局問われているのは、撮る側の「気」かもしれない。かつて魔法の箱だったカメラは、被写体よりはるかに偉かった。明治天皇も一目置いたという話を前に書いたが、だれもがカメラの前では、金縛りになった。暗箱大明神サマサマ。写真とはそういうものだったのである。
 そのカメラはいまや、家電製品になり下がってしまった。先日乗り換えたiPhoneのカメラは、映像記録装置としてはとてつもなく優秀なのだが、iPhoneの数ある機能のうちではむしろマイナーな部類で、マニュアルすらない。慣れ親しんだカメラとあまりにも違うので、半月以上ものあいだズーム(デジタル)であることにも気づかず、笑われてしまった。
 しかも撮れる画像は、手ぶれのリスクを除けばほとんど完璧だ。だいいち敵はカラーだし、コントラストが強すぎる画面では、自動的に補正する2つ目の画像までが写ってしまう。一緒に持ち歩いている暗箱なんかバカバカしくてやってられないと、ふっと思いかねないほどの、危ない代物である。
 それでなくても、かつてフィルムカメラをふりまわしていた仲間たちが、次々とデジタルに取り込まれていくのを目の当たりにしているから、ここで踏みとどまらないと、あえなく白旗をかかげることになりかねない。要は「気」だ。撮る側の「気」である。ここはひとつ、暗箱大明神復活を宣言せずばなるまい。
 手がかりは、ポートレート写真の原点、写真館写真の作法である。失敗しないためにあらゆる気配りをする。被写体の配置、露光、ライティング、ピント合わせ、絶対に手を抜かない‥‥写真館と違うのは、撮影の意図である。これを明確にしないといけない。(上は高校の山登りと写真の仲間たち。珍しく気が入った1枚だ)
 そのうえで、ほんのちょっと周囲への迷惑を押して果敢に撮る。むろん1枚しか撮らない。そうして、写真の原点を、デジカメとは違う写真を示し続けることである。笑わば笑え。何とでもいえ。こちらは大明神だ。怖いものなんかない。