語りかける写真

 1枚の写真に目が止まった。ANA全日空)のCMだ。テレビでは、「たった2機のヘリコプターから出発した小さな民間航空会社。それが、私たちANAのはじまりでした」とモノクロ動画から始まるが、一瞬だけスチル写真が出る。これが実にいい写真。新聞広告であらためて見た。ますますいい。
 おそらく、日本ヘリコプター輸送の写真だろう。1952年に連合国軍の占領が終了して、それまで禁止されていた日本の航空輸送が復活した年だ。ベルのヘリの前に5人の男たちが並んでいる。小学校の校庭だろうか。はるか後ろに大勢の子どもたちがぎっしりと並んでヘリを見守る。このあと、ヘリは砂塵を舞い上げてふわりと浮き上がったはず。いつか見た光景、感動が蘇る。
◆案外多い「人間嫌い」
 面白いもので、写真をやるなかでも、作品としては人間をあまり撮らない人たちがいる。アートの絵づくりにこだわる向きで、アマも含めて実はかなり多い。そういう人たちには、ANAの写真もただの記念写真。私が好んで撮っている集合写真なんか、間違っても作品だなどと思ってはくれない。

 実際に撮ってみると、そのあたりがよくわかる。「撮りますよ」というと喜んで並んでくれるのだが、記念写真のつもりだと、カメラをかまえて見せたり、Vサインをしたり、プロに多いのだがちょっとすねて横を向いたり、あるいはただお行儀よくしたり‥‥「エッ、それじゃぁみんなそうじゃないか」。そう、集合写真を作品だと思う人なんてほとんどいないのである。
 では、人数が少なかったら? 3人ならどうか、2人なら? 1人ならもう立派なポートレートだが‥‥要するにそれを決めるのは、撮る側と撮られる側の心づもり。人数に関係なく、「作品だ」といったら作品なのである。
 ただ、大勢が写っていると、芝居っ気がありすぎもいれば、ぶちこわし屋もいる。とにかく危なっかしい作品づくりは間違いない。そこで最近は、並び方とかポーズとか、多少手を加えるようにしている。集合写真はもともと「造り写真」だし、その気で撮った方が結果がいい。失敗も減るからである。(「8x10カメラな仲間たち」の写真展で。みんな撮られるのも大好き)
 グループがおかれた状況を、背景も含めてそのまま撮るーーそれが私の流儀(というほどのものではないが)である。これを系統立ててやったのが、アウグスト・ザンダー(1876—1964)だ。彼は、ドイツのあらゆる職業の人たちを、あるがままの服装、状況で撮った。ポートレートによってワイマール時代の社会そのものを記録しようとしたのだった。(写真集「時代の顔」)
 ここまでになるとアマチュアとしてはちょっとつきあいきれないが、ポートレートの手法として追随する人は非常に多い。わたしもそうなのだが、別に真似をしたわけではなく、写真があがってみたら、同じ流れだったということなのだと思う。つまり、自然なのだ。
◆ザンダーの子どもたち
 ザンダーの写真の多くは、見ただけで被写体が何者かがわかる。が、私はむしろ、はっきりしない写真の方が好きだ。有名な「(舞踏会へ向かう)三人の農夫」(1914年)というのは、説明がなければなんの写真だか、見当もつかない。3人の若者がめかしこんでいるのはたしかだが、田舎者丸出しだし、どんな場所かもよくわからない。
 ところがタイトルで「農夫」とわかったとたんに、想像力が刺激されて、様々なメッセージが写真から飛び出してくるのである。何の変哲もない写真だが、撮影が1914年、第一次大戦の始まった年だ。ドイツの片田舎の田園地帯にいたこの若者たちを、どんな運命が待ち受けていたか。ここから、3人の兄弟(?)を主人公に、壮大な物語を組み立てたアメリカの作家もいる。ただし、並の想像力ではないが(リチャード・パワーズ「舞踏会へ向かう3人の農夫」)。(パワーズにとんでもないインスピレーションを与えた「3人の農夫」。ザンダーの代表作だが、写真としてはとりとめがない)
 いわゆるポートレートには、人体をオブジェとして、上半身とか顔のアップで陰影を強調したりする流れと、逆に人間として、空気を伝えるという流れがある。前者にはアマが少ないが、多分ライティングが難しいからだろう。一方後者はプロ、アマを問わず広がりが大きい。いわば、自然な人間写真の系譜である。
 何年か前に、ニューヨークで「ザンダーの子どもたち」という写真展があったらしい。そのポスター(右の写真)や並んだ作品を見てみると、アーヴィング・ペン、ダイアン・アーバス鬼海弘雄リチャード・アベドンなどの作品が、あたかもザンダーに追随したかのように、違和感なく並んでいる。
 いや、追随などではなく、あらためてそれこそがポートレートの王道なのだと、示してくれているかのようだった。だれもが思いつくスタイルで写真を撮った結果が、こうなった。ただじっとカメラを見ている。それが、もっとも自然なポートレートの形なのである。
 ただ、あまりに自然すぎて、アートの部類には入らない、と思う人たちが多いのも事実。とくに日本ではそれが強いようで、ポートレートというもの、写真というものを考える上で、これはいささか気になるところである。
◆女性写真が少ないわけ
 私のネットのアルバムを見た写真の先輩が、「女性が少ないね」と感想をもらしたことがある。その通りで、きれいなネーチャンどころか、汚いおじさんばかりといっていい。女性にはほとんど縁がないのだから仕方がないのだが、それ以上に、知ってるおじさん、おばさんだから撮りたいというのが大きい。いわば、仲間写真なのである。
 カメラ仲間ではよく撮影会があった。プロが若い女性のモデルさんを連れてきて、ライティングを整えてみんなで撮る。これに事務方としてはよくつきあったが、自分で撮影することは滅多になかった。モデルさんはみなきれいだが、それだけではどうも撮影意欲につながらない。「どこのだれだか知らない人を撮ってもねぇ」ということである。
 それよりも、どこのだれさんで、何をしているかもわかっていて、いつも話をしていて、こんな表情や状況で撮ったら面白いな、というところからスタートする方が自然だ。大勢で集まった写真だと、各人の特性は埋没してしまうことが多いが、その中から2人だけ、5人だけと選び出せば、個性の引き出しや再構成は可能になる。
 おそらく、大判という制約から自然にそうなってきたのであろう。小型カメラで表情を追ってガチャガチャと枚数を撮るのとは全く違う撮り方。被写体はオブジェではなく、あくまで人間である。名前もあり、職業もあり、人生があり、わたしとなにがしかの関わりがある人たちなのだ。
 レンズの描写には欲が深い方だから、つるんとしたモデルさんよりも、しわが刻まれた顔の方が面白い。レンズの個性をぶつけることもできるし、背景だって、できれば意味を持たせたい。あらゆる職業人を網羅しようとしたザンダーの意図とは、少し違うことも、これでお分かりいただけるだろう。
◆やっぱりポートレート
 ちょうど東京都写真美術館で、「二十世紀肖像」という写真展をやっていたので、「確認」のつもりでのぞきにいった。サブタイトルが「全ての写真はポートレイトである」と、いささか大仰だが、たしかに、ありとあらゆるポートレートの試みが並んでいた。人間写真がこれだけ並んでいると、なんとなくホッとする。ポートレートこそは写真の原点だと確信させてくれるからだ。
 ザンダーもきちんと一角を占めていた。「3人の農夫」「ボクサー」「菓子屋の親方」‥‥また別のところに、「農家の三代」などの家族写真もあった。無意識のうちに、「大判の写真」「大判でも撮れる写真」「集合写真」を探す。ポール・ストランド、ダイアン・アーバス、ウオーカー・エバンズ、繰上和美‥‥。
 また、黎明期の写真館写真のなかに、いいものがあった。どれも語りかけてくる写真である。しかし、あとになって気がついた。「あれ、アーヴィング・ペンがなかったぞ。アヴェドン、メープルソープは?」。まあ、鬼海弘雄島尾伸三があったから、よしとするか。写真は大判ばかりじゃない。でも、みんな「ザンダーの子どもたち」は間違いない。(やっぱりペンが抜けてはいけません)
 このところ、立て続けに集合写真を撮る機会があったので、いっそう感じたのかもしれない。上に掲げた写真展での記念写真もそのひとつである。8x10で撮って焼いて並べるという集まりで、昨年までは「8x10組合連合会」という面白い名前の会だったのだが、ことしはいっそう数がふえて、大変な盛会だった。
 メンバーの共通点は、「バイテンで撮る」というだけで、スタイルはみなそれぞれ。人間写真もあれば、風景だけという人もいる。レンズで凝ったり、焼きで凝ってみたり、バラエティーが面白い。また、応援団みたいな人たちも大勢いて、でっかい写真を素直に楽しんでいる。
 ちょうど、田中長徳さんやナガオカの長岡啓一郎さんの顔も見えたので、「撮らせてください」といったら、その場にいた人たちも加わって大集合写真になった。こちらは5x7だったから、ちょっと気圧され気味だったが、みな辛抱強く待っていてくれた。結果はご覧の通り。これだけ大判好きがいるというのは、頼もしい限りである。
◆等身大のジオラマ写真
 お台場の「船の科学館」に青函連絡船の羊蹄丸が係留されている。この中に、連絡船の内部や青森駅前の市場を再現したジオラマがある。等身大の人形が沢山いるので、その間にまぎれこんで集合写真を撮ってみたいとずっと考えていた。
 9月の末だったが、「撮られたい人集まれ」と仲間に声をかけたら、何人かが集まった。ジオラマの人形たちは、かつぎ屋のおばさんやお巡りさん、ストーブの脇には寅さん風のお兄さん、赤帽もいればデッキにたたずむ女性、キップを買っている親子連れ、酔いつぶれたおっさんなんかもいる。さあ、そこで本物の人間がどうまぎれこんでどう演技をするかである。
 結論から言うと、みな大根役者ばかりで、そのままでは絵にもなにもならない。ああだこうだいってるうちに、管理の方から、やめてくれという騒ぎになりかけて、結局撮ったのは3枚で、まともに写ったのは上の1枚だけ。むしろ、参加者が一眼レフで撮ったものの方が面白かったりして、面目ない結果に終わったのだった。
 しかし、この遊びは結構大判向きである。三脚の持ち込みも含めて、博物館ときちんと話をすれば、間違いなく面白いカットが撮れる。それよりも問題は役者の方だった。どこに自分を置いて、どう撮られたいか、これがはっきりしないと、絵にならない。つまり、写真師がへっぽこだとただの記念写真にしかならないと、あらためて思い知ったのだった。
 最後の1枚は、わがマンションの塗装工事の職人さんを撮ったものである。あらかじめ描いたイメージ通りに人を配して、「ハイ、動かないで」とスローシャッターでやっつけた。職人さんはみな生真面目にレンズをにらんでくれて、女性は笑顔で、自然でいい感じが出た。
 写真のデジタルデータを事務所に届けたら、さっそくパソコン画面に絵が出た。「データをカメラ屋さんにもっていけば、プリントしてくれますよ」。こうした仕事の現場の写真なんて、滅多に撮ることはないだろうから、いい記念写真は間違いない。それに、いかにもしゃべり出しそうな感じがある。このあと、職人さんたちがちょっと愛想よくなった。
 実は、現像があがって初めて気がついた。「あれ、ザンダーじゃないか」と。「別に、職人さんをねらってるわけじゃないよ」とおかしくなった。そういえば、ザンダーが撮った人たちは、どうだったんだろう。およそ写真には縁のない人たちが大部分である。「3人の農夫」や「ボクサー」たちに、ザンダーはコピーを届けたんだろうか。あらためて気になった。

へそ曲がりとわがままの果て

 「え? 水晶のレンズ?」。初めて聞いたときは、まさかという感じだった。物知りに聞いてみると、ちゃんとあるんだと。「水晶って溶けるの?」「珪石だからね」「フーン」といったところで、わかったようなわからんような。
 ピントがキリッとしたのが写真の本道だとすれば、写真らしくない写真を、つまり絵画的な写真を目指した芸術運動がピクトリアリズムだ。19世紀から20世紀への変わり目のあたり。その需要に応えてソフトフォーカスのレンズがいろいろ作られた。そのひとつらしい。「しかし、水晶ねえ。写るんかいな」
◆遊べるレンズ?
 これが立派に写るのである。どころか、いわゆるソフト・レンズにありがちな妙なくせがない。絞りを絞っていくとどんどんシャープになるという、シングル・レンズの特性はそのまま。ただ、そこがガラスと違うのだろうか、コントラストは弱め、逆光では簡単にフレアが出るようだ。だから逆に、被写体と照明をうまく選べば、「水晶効果」が出せる?のかもしれない。

 六本木のラボ「田村写真」の田村政実さんが、いろいろもっているのを見せてもらおうと、好き者が集ってうかがったとき、田村さんの友人の人形作家、石塚公昭さんが、わざわざ水晶レンズをもってきてくれたのだった。人形でイメージ写真を撮っている方だ。
 アルミのシンプルな鏡胴で、「STRUSS PICTORIAL LENS FOC. 9 IN. No.159」とあるだけ。直径は数センチ、鏡胴は長めだが普通の大きさ。ただ、軽いのに驚いた。レンズは1枚だが、張り合わせではないらしい。「えー? アクロマート(色消し)でもないの?」。あとで知ったのだが、同じ口径で焦点距離の異なるレンズの差し替えが可能なのだそうだ。
 そんなこともあろうかと、フランス製ロリヨンの暗箱にユニバーサル・レンズホルダーをつけていったので、その場で試し撮りをしたのが、上の写真だ。開放はF5.5とあるのをのぞいてみると、かなりフレアっぽい。絞っていくとだんだん像が締まってくるので、集合写真だからとF11まで絞って撮った。結果が上に記した印象だ。絞りを開けると、ピクトリアルになるのだろう。
 このストラスというのは、ニューヨークのカール・ストラスというピクトリアリズムの写真家が、はじめ自分用にデザインして作ったものを、後に売り出したという風変わりな成り立ちだ。メニスカスで、陰影がくっきりするのが特徴というが、一部水晶(石英)で作ったらしい。しかし、その効用を書いたものは、見当たらない。数が少なかったのか。


 ストラスはドイツ系だったため、第一次大戦で忠誠心を疑われ、戦後、生まれ育ったニューヨークを追放される。ためにハリウッドに移って、スチルからムービー・カメラマンとして名をなすのだが、レンズも独特のソフト効果と安さで、長く人気だったという。しかし、日本では聞いたことがない。見たのもはじめてだった。(上はストラス夫妻 撮影:エドワード・ウエストン1923年。下はストラスの作品「ブルックリン橋」1909年)
◆シャープとソフトの分かれ道
 ポートレート用のペッツバールは明るかったが、中央部しかピントが合わないから、風景は撮れなかった。肖像を撮るときでも、周囲のもやもやが目立たないように、背景を工夫したり、近接状態で撮った。だから、ダゲレオタイプでも湿版写真でも、レンズの性能からいえば驚くほどシャープに仕上げている。写真師のワザであった。
 ところが人間とはわがままなもので、レンズメーカーが知恵を絞ってシャープなレンズを作ったとたんに、こんどはもやもやの写りが欲しいといい出す。最初が1860年代後半だ。ダルメーヤーがラピッド・レクチリネア(RR)を考案、同時にシュタインハイルもラピッド・アプラナートを作った(両者は偶然同じもの)、そのあとである。
 RRは全画面でのシャープネスとF8という明るさを達成した革命的なレンズだったから、ひとつの到達点だった。ところが当のダルメーヤーは、ペッツバールに手を加えて、ソフト効果を調整できるポートレート・レンズを作る。そんなものを作るというのは、需要があったということ。つまり、もやもや需要である。おそらくは、女性のシワ隠しだったのだろうが‥‥。
 このレンズも革命だった。それまでのペッツバールは、いわば天然ぼけだったのを、意図的にぼけを作り出せるようになったのだ。この違いは大きい。ここからレンズは、シャープとソフトという2つの流れにはっきりと分かれたのである。起点がどちらもダルメーヤーというのが面白い。
 次のわがままが、アナスチグマットからテッサーに至る時期だ。パウル・ルドルフが考案したアナスチグマットは、RRに残っていた収差を劇的に補正してシャープネスを極めた。3枚張り合わせという工作の難しいレンズを、前後対にした超高級レンズだったが、この技術はたちまち行き渡って、ゲルツがドッペル・アナスチグマット(のちのダゴール)、フォクとレンダーはコリネアを作る。
 みなアナスチグマットと称したので、本家ツァイスはプロターという名前になったが、のちのテッサーは、そのクオリティーを3群4枚という単純構成で成し遂げて、近代レンズの道を拓くのである。ま、いまだに「テッサーよりダゴールの方が‥‥」という信者はいるが、そんなことをいう人は、どうせたいした写真は撮ってないから、気にすることはない。
◆ソフトのオンパレード


 それよりも、ソフトだ。テッサーがシャープネスを極めたのをしりめに起こったのがピクトリアリズムである。これ以上のへそ曲がりはない。イギリスではじまり、次にアメリカでアルフレッド・スティーグリッツやクラレンス・ホワイトらが唱導して大いに広まった。
 だからだろう。これに応じたレンズ作りはアメリカから始まった。ピンカム・スミス(P&S)が収差を残したレンズを最初に作った1901年を「ボケレンズ元年」と前に書いたが、これに続いて「ピクトリアル」と称するレンズが出始める。小さなメーカーが多かった。
 P&Sも元はメガネ屋だし、スペンサーも本業は顕微鏡メーカーで、ピクトリアル・レンズはサイドビジネスだったらしい。ストラスも前述の通り、個人の手作りから始まっている。まだまだあるが、どれもいまや幻のレンズだ。
 もっとも簡単にソフト効果が出せるのが、昔からあるシングルのアクロマートだった。原理は、「ベス単フードはずし」と同じ。単玉レンズは球面収差、色収差があるから、フレアがいっぱいだが、絞り込めば画面は締まってシャープになる。初期の単玉は、あらかじめ絞り込んで作ったのだったが、それを開けっぴろげにしてしまったのである。(田村さんのスペンサー、左から6in./4.5、15in./5.6、18in./5.6)
 スペンサーのポートランド(Port-Land)という名前は、「Portrait」と「Landscape」の頭をとったもので、絞りの加減ひとつで、どっちでもいけるよという意味である。これはストラスも同じで、絞り開放ではぼけレンズだが、F16、F22‥‥と絞り込むと、カチンカチンに写る。案配は絞りひとつだから、使い勝手もいい。
 これら小さなレンズメーカーが困ったのは、鏡胴だった。そこで大手のウォーレンサックなどが手を貸したらしい。大きなレンズを作っていたから、お手のものだ。そしてやがて自前でも、ソフトをつくり始めた。ビタックス、ベリート、ベリターなどである。だいたい1910年前後がピクトリアル・レンズのピークである。(ぼけレンズ元年のP&Sのアクロマチック。上のストラスと同じ作りにみえる)
◆幻のレンズをグルメ
 「田村写真」へ出かけていったのは、その幻のスペンサーを見せてもらうためだった。田村さんは3本ももっているのだが、ポートランドは、作られた時期によって見かけがずいぶん違う。おそらく鏡胴を作ってくれるメーカーの違いである。しかし、メニスカスの1枚玉という造りは変わらない。


 一番大きい18インチを8x10で開放のままをのぞいてみると、色収差みたいなものがみえたりして、「はて、モノクロだとどうなるのかな」。近距離で人物をのぞいたら、もっと特性が出そうな感じがあった。
 このレンズには、プロテクターのガラスが前面に入っていた。アメリカの大判フォーラムをのぞいてみたら、「平らなガラスを被写体に向けること」なんていうレベルなので、笑ってしまった。アメリカでも知る人は少ないのかもしれない。(当時のカタログ。ストラス同様それほど高いレンズではなかった。シングルは工作も簡単だからだろう)
 長年ポートランドを愛用している田村さんは、「フレアの調整が絞りひとつなので、他のソフトレンズと較べても使いやすい。センターと周辺の差もないし、コマ収差もない」という。
 これらとは別に、単に「ポートレート」と称する天然ボケのレンズは、ダルメーヤーに触発されて脈々と続いていた。大方はペッツバールの変形か、RRとの組み合わせである。ユニークだったのが、トリプレットのクーク・ポートレートテーラーホブソン)で、本来はシャープなレンズの中玉を動かして、ダルメーヤーと同じようなソフト効果を出した。このアイデアは、後のユニバーサル・ヘリアーも同じだ。
 ピクトリアリズムの写真家の多くは、はじめはこうしたレンズを使っていたらしいが、ポートレート・レンズのソフト効果はたかが知れている。ピクトリアル・レンズは、ユーザーの要求がどんどんエスカレートした結果なのであろう。(田村さん27年前のセルフポートレート。絞り込みによるピント移動があるようだ。Spencer 18in. f5.6)
◆日陰のあだ花
 ポートランドに限らず、ソフト・フォーカス・レンズが高いのは、数が少ないからである。その少ないのを、コレクターがまた戸棚にしまってしまうのだから最悪。ソフト志向は根強く続いてはいるが、数が少ないのは要するに、レンズ作りからいえば邪道、いかがわしい遊びだからであろう。
 それが証拠に、カール・ツァイスにはソフト・レンズというものはない。唯一ポートレート・ウナーというのがあるが、ツァイスの正規の製品リストには載っていない。提携していたボシュロムが、ピクトリアリズムの需要に合わせて勝手に作ったアメリカ・レンズらしい。よくまあ、頭の固いカール・ツァイスがOKしたものだと思う。

 ピクトリアリズムですら、いってみれば一種のあだ花だった。終わったのは、当のスティーグリッツが真っ先に決別して、ストレートフォトに移行したからである。絵画と写真とは別もの、という転換だ。いわば写真が本道に還ったのである。
 スペンサーというと必ず、「アンセル・アダムズが使ったレンズ」といわれるが、彼はストレート・フォトの「グループ f/64」の男である。むしろヨセミテなどを持ち歩くのに、1枚玉レンズの軽さを愛したのではあるまいか。F64まで絞れば、もうピンホールみたいなものだ。
 ピクトリアリズム以後、ソフト効果撮影は、裏街道の密かな楽しみになっていく。愛好者も多く、これがなくなることはないだろう。大判自体が劣勢になっているいま、大判でしか得られない描写ということでいえば、ソフトは大きな武器になりうる。1枚玉にしろ何にしろ、35ミリ判にはない描写だから。(田村さん所蔵のソフト・レンズ。パッと見て何だかわかるようだったら、あなたは相当な病気だ)
 ただし、安易な使い方は、墓穴を掘ることにもなりかねない。使う上で難しいのは、被写体が本当にレンズのソフトの風合いに合っているかどうかだ。写真館のポートレートの隠しワザとしての使い方には、正統性がある。静物や花の写真にもいけそうだ。だが、風景写真での作画となると? それにふさわしい被写体を探すのは容易ではあるまい。
 ソフト・レンズには麻薬的な魅力がいっぱいだが、常に危うさと紙一重なのである。
       ◇    ◇    ◇
 田村さんのグループ写真展が近くある。去年までは「8x10組合連合会」といっていた。バイテンでプリントという、ある意味贅沢な作品展だ。
 「8x10カメラな仲間たち写真展2010」   9月22日(水)から30日(木)
 元麻布ギャラリー
(港区元麻布 3-12-3)  連絡は03-3404-6646(田村写真)
大江戸線麻布十番駅7番出口から徒歩4分、暗闇坂を上りかけた右側。オーストリア大使館の真向かいになる。

昔の写真師に敵わない

 日本カメラ財団であった古写真を読み解くという催しに出て、驚いた。200人くらいは入るホールがほぼ満員なのだ。大半はお年寄りだったが、中に若い男女の姿もある。明治から大正期の銀座、京橋から築地にかけての写真を、現在の様子を念頭に置きながら、解説するという趣向である。何でそんなものに? 自分もそこにいるのを棚にあげて、不思議でならなかった。


 これが人物写真となれば、何のだれ兵衛がどこでどんな場面で撮ったとか、一緒に写っているだれそれとのいわく因縁だとか、時代背景がどうだとか、専門家の解説も必要かもしれない。だが、町の風景ならだれが見たって一目瞭然だろうーーそう思っていたのだが、違った。古写真の見方にもいろいろあるものだと感心もし、また解説はそれなりに面白かった。
中岡慎太郎はなぜ笑っているのか
 ただ、これらの写真がどんな機材を使ってどう撮られたのか、そこに関心のある人は、わたし以外にはいないようだった。それはそうだろう。大判写真を、それも古い機材で実際に撮ってみないと、そういう発想は出てこない。写真は現にそこにあるのだから、それでいいではないか。これ、美術館の学芸員ですら、そうなのである。
 月刊写真工業の連載のはじめのころ、「龍馬は笑わず」という話を書いたことがある。龍馬が生きたのはまだ湿板の時代だから、あの有名な肖像も露光に数秒はかかった。笑って笑えないことはないだろうが、撮影風景はずいぶんと薄気味の悪いものになったろう。やはり笑えるようになるのは、感度の高い乾板になってからだった、というお話であった。(写真右上 坂本龍馬記念館所蔵)
 ところが、中岡慎太郎の笑った写真というのがあった。これがまた、とびきりの明るい笑顔である。慶応3年(1867年)京都四条の近江屋で、龍馬と一緒に暗殺されたのだから、同じ時代は間違いない。なのになぜ、彼は笑っているのか。(写真右 中岡慎太郎館所蔵)
 中岡は頬づえをついていて、顔はやや不鮮明(やはり動いた?)だが、他の部分は鮮明だ。これは、古い写真では普通のことで、顔がいちばん動きやすい。が、笑顔は実に自然で、乾板の時代か、あるいはもっと後の時代の写真とあまり変わらない。
 また、写真の左側は不自然に切り取られている。中岡の膝に乗っている着物の袖の模様と背後に見える飾りのようなものから、何かの扮装をした女性が写っていたようようにもみえる。舞子にでも寄り添って、思わず笑い顔になったものか。
 そこで、日本カメラ博物館の古写真の専門家、井桜直美さんに聞いてみたら、「芸者さんが写っていたんです」という。やっぱり。オリジナルを見た記憶があるとも。「家族の方が切り取ったのでしょう」
 いやいやそうではなくて、聞きたいのは、なぜ中岡が笑っていられたかだ。この写真を見ていると、ひょっとして割と短い露光時間で撮られたのではないか、と思えてくるのだ。
◆ 古写真好きの盲点


 これ実は、湿板写真でしばしば抱く疑問である。わたしは1秒くらいの露光をよくやるが、何かによりかかってでもいないかぎり、10人のうち3人くらいは間違いなく動いてしまう。人間は息をするだけで動く。とくに顔と上半身が動きやすい。
 わずか1秒でもこうなのだから、数秒間動かないために、昔はいろいろ小道具を使った。首の後ろに支えを置き、何かに寄りかかる、頬づえをつく‥‥龍馬も中岡も、その作法をきちんと守って写っている。
 それでも笑顔にはリスクがあった。湿板写真に笑顔が少ないのは、写真師が失敗を恐れたからであろう。しかし一方で、幼い子どもがひとりで、あるいは母親に抱かれて、全く動いていない写真というのがある。どころか、イヌやネコ、ウマまでがちゃんと写っているのもある。幼児やイヌ、ウマが5秒も6秒もじっとしているなんてありえない。(写真左 幼児2人だけというのは珍しい。さすがに目の辺りは動いているが、それでも3秒が限度だろう)
 しかし、その不可能が現に写っているのだから、結局露光時間が短かかったとしか思えない。湿板の感度はASA0.5から1とされるから、当時の暗いレンズで1秒や2秒で写るはずがない。いまでいう「増感」みたいな技術があったのではないか。疑問とは、このことである。
 湿板写真は1880年の乾板の登場までざっと30年間続いた。焼き増しができるというので、家族写真がブームになり、60年代には小型の名刺写真が流行した。ここにあげたのは、「Cartes de Visite(名刺)」という湿板の名刺写真を集めたドイツ本の表紙だ。女児が差し出した指を見つめて、イスの上でお行儀よくしているイヌ。「写るはずのない写真」である。(写真左)
 こんな話をしていたら、井桜さんは自著の「セピア色の肖像」をもってきた。ご自分のコレクションをまとめたものだという。中にイヌがあった。それも前足をあげて「チンチン」しているところだ。「エーッ!」である。
 よくみると、さすがに顔は動いているが、イヌにはせいぜい2秒が限度。ますます写るはずのない写真ということになる。しかし井桜さんは、あまり疑問に思わなかったらしい。それはそうだ。写真は目の前にあるのだから。ポイントは、少なくとも1秒とか2秒とかで撮ったに違いない、そのワザは何だったかなのだ。(写真下 犬の写真は高速シャッターでも難しい。まして集合となったら、もう祈るしかない)
◆歴史の闇に消えた秘伝
 おそらくは「秘伝」である。弟子にだっておいそれとは教えないような、書いたものも残さないような、写真師それぞれの工夫があったのではないだろうか。われわれは上野彦馬と下岡蓮杖の技術が必ずしも同じでなかったことを、薄々感づいてはいる。しかし、どう違ったのかはわからない。まして感度を上げるとなれば、秘技中の秘技だったはずである。
 幸か不幸か、それらすべては乾板の登場とともに雲散霧消した。乾板の高感度と簡便さが、文句なしに秘伝を上回ったからだ。哀れ秘伝は、コダックのおかげで闇に葬られてしまう。写真師1人ひとり違った薬品の調合なんかを、書きとめる必要もなくなったのである。
 古写真ではまた、「なんでこんなにシャープなのか」と考えこまされること、しばしばである。先頃東京都写真美術館であった「侍と私」展は、初期写真でポートレートを考えるという企画だったが、一眼レフのレンズをはずしてルーペ代わりにのぞいてみた。もうびっくりの連続である。
 肖像だとあまり大きなものはないが、集合写真でも個人でも、ダゲレオタイプから湿板、乾板、どれをとっても、「負けた」というような作品ばかりだった。とにかくシャープなのだ。1枚の画面に切手くらいの大きさの顔が沢山並んでいるものがあって、どうかなとのぞいたところ、一つひとつが完璧だった。「こんなことってあるのか」と、先輩と顔を見合わせた。
 使われたレンズは、ペッツバールかラピッド・レクチリネア(RR=アプラナートと同じ)か単玉のメニスカスか。それ以外にシャープに写るレンズはなかった。わたしはいまこれらのレンズで普通に撮っているから、あらためて当時の写真師のワザのほどがよくわかる。
 当時性能として最高のレンズはRRで、これをぐっと絞り込むと、厳密な収差の話はともかく、後のテッサーやトリプレットにひけをとらない絵が撮れる。問題はピントの奥行きだ。イメージサークルの大きいレンズは、絞り込んでも被写界深度はそれほど深くはならないから、アオリを使ったりいろいろしないといけない。
◆なぜ「負けてる」のか
 これ実は現代レンズでも同じである。つまり、どこまで絞ってアオリをどう使うかに関しては、湿板も乾板も明治も昭和も、われわれと同じ土俵に立って対等に勝負しているわけだ。だからこそ、彼らのワザが並々ならぬものであるとわかるのである。なぜって、フィルム感度がけた違いなのだから。(写真左 2分の1秒くらいで撮っているが、目にピントが合って、かつ動かなかったのは奇跡に近い)
 わたしはASA100、320、400といった高感度フィルムを使っているから、レンズが暗くてもへっちゃらだが、湿板の感度はそれらの1/100とか1/400、1/800、乾板では10から20倍になるが、どっちにしてもとてつもないハンデである。そこをさらにF11だの16、22とかに絞って彼らは撮っている。でないと、鮮明な写真は絶対に撮れない。
 1人2人の肖像写真はそれほど絞らなくてもいいが、集合写真や風景となると、どれだけ絞ったらピントがゆきわたるか、現代レンズを使ってもまことにおぼつかないものだ。しかし、それがちゃんと写っているのだから、それだけでも「負けた」という気分になるのに、さらに「え? どうして?」というような写真がいくらでもある。
 厚木のかとう写真館で、加藤芳明さんのお父さんの写真を見せてもらった。3枚あって、1枚は小学校の集合写真。あとの2枚は厚木の祭りの集合写真で、どれも大きさはバイテンの上の四つ切り11x14インチの密着焼きだ。

 時代は大正の終わりから昭和のはじめだろう。どれも地元の写真館が撮ったものだが、ピントがすごかった。ルーペでのぞいてみると、乾板といえどもさすが密着の威力、その鮮明なこと驚くばかり。とくに小学校の写真は、1人ひとりがすごいだけでなく、後ろの建物から屋根瓦にいたるまで、見事なピントだ。
 また、お祭りの写真は、豆粒のような人物がどれも識別可能で、なかに大判特有のピントのエアポケットみたいなものも、ちゃんと読み取れる。1枚は変色して銀が浮いてきているのだが、手前中央の人物から、はるか後ろの屋台のてっぺんの神武天皇かなんかの人形までピントが通っている。もう1枚の左にある「加藤自転車店」というのが、加藤さんの実家なのだそうだ。
◆もっと驚くのが‥‥
 まさに旧き良き厚木。これらが、別に名のあるわけでもない、地元の写真師の手によって、しっかりと捉えられている。写真師はまるで魔法使いのように見えたかもしれない。写っている人たちはプリントを前に、あだこうだと長い長い時間を楽しんだに違いない。
 まあ、これは昭和に入ってからだから、技術的には現代とほとんど変わらないのだが、「では、お前これが撮れるか」といわれたら、やっぱり考え込んでしまうだろう。まず、11x14インチというカメラがない。イメージサークルがそんなにでっかいレンズもない。だから実のところ、そんなレンズで四隅までピントがくるかどうかも体験したこともない。ここでも見事に負けなのである。
 なんで古写真はかくもシャープなのか。レンズだってどれも手探り設計の手磨き。おまけに長時間動いてはいけないというのに‥‥その謎の最たるものが、ダゲレオタイプである。この時代、レンズはもっと不自由だったはずなのに、エッと驚くものが沢山ある。
 一度横浜で、ダゲレオタイプの撮影風景をみたことがあるが、銀板を用意して戸外に人を立たせて、露光がなんと8分だった。写される人たちは嬉しそうにじっとしていたが、みんなちょっとづつ動いていた。息をしているのだから当然だ。しかし、本物の古写真となると、まさに鳥肌が立つ。
 ここに載せた「サミュエル・F・B・モース」は、画家で発明家。電信の「モールス信号」のモールスその人なのだが、ダゲレオタイプがパリで発表されたあと、真っ先にカメラと技術をアメリカに持ち帰ったことでも知られる。彼は電信開発費用を稼ぐために、ニューヨークで写真教室を開いた。集まった中にマシュー・ブレイディーやエドワード・アンソニーがいて、やがてアメリカ写真のパイオニアになるのだが、この肖像は、そのブレイディーが撮ったものだ。(Library of Congress)
 見れば見るほど、「どうやったんだ?」と思ってしまう。露光が何分だったかはわからないが、いかに小道具があったとはいえ、まあ今の感覚でいえば気の遠くなるほどの時間じっと動かず、なおかつ目がこんなにはっきりしているとは、どういうことか。
 ブレイディーもアンソニーダゲレオタイプで著名人を沢山撮っている。リンカーン大統領もその1人だが、みな我慢強かったのは確かだ。撮られたいという意欲のほどが違ったのであろう。昔も今も肖像写真は、撮る側と撮られる側との共同作業なのだ。
 彼らのワザが、もしわかったとしても、あえて実践する必要はない。ただ、手探りで歴史を作った、いにしえの写真師たちへのオマージュにはなる。秘伝や仕掛けを探り出して、たたえてやりたいものだ。その様々なワザのお陰で、われわれは貴重な歴史のひとこまを、いまも見ることができるのだから。

大判で何が撮れるか

 写真展を観ていると、「あ、これ大判でも撮れるな」と思うことがしばしばある。いつも大判マインドなので、そういう目になってしまったらしい。あらためて考えるまでもなく、大判ではスナップや決定的瞬間みたいなものは無理だが、風景、静物、肖像写真の多くは、小型カメラと同じ土俵に立っている。

 ひとたびプリントになってしまえば、カメラがなんだろうと、フィルムもデジタルも関係ない。だれも、大判だから「偉い偉い」なんていってくれない。しかし、機材の不自由は間違いないのだから、これは恐ろしいハンデを背負わされていることになる。
 なにしろ相手は、速写、連写が可能なうえに色もトーンも調整自在、おまけに高画質は、4x5(インチ、以下同じ)くらいは追い越しているというのだから、そこへ三脚かついで暗箱もって、しかもモノクロというのは、チャプリンドンキホーテ……しかし、勝負はしなければならない。だから、写真展を観るのは大いに闘争心を奮い立たせることになるのである。
◆不自由からのスタート
 ちょうど「世界報道写真展2010」をやっていたので、その気になって観てみると、多分100%デジカメで撮ったものばかりだと思うが、大判でもいけそうなものはやっぱりある。砲撃で破壊された部屋とか、干ばつで死んだキリン(あまり撮りたくないが)とか、むろんポートレート部門の作品は、大方重なる。家族や若い男女の群像なんてのは、大判向きである。このあたりになると、必ずしも動きのあるなしではない。
 むしろ問題は、報道写真になるような事柄の現場まで、えっさえっさ大判かついでいけるかどうかだ。大判しかない時代には、それでも写真師たちはでかけていった。
 マシュー・ブレイディーは、馬車に湿板用のガラス板と薬品を積んで、南北戦争の戦場を歩き回り、6000枚もの記録を残している。日清戦争では、日本陸軍の記録班はすべて乾板だった。ツタンカーメンの発掘記録は、特注のガンドルフィで撮られたし、太平洋戦争までは、米国の報道の主力はまだ4x5だった。
 その頃ポパイのアメリカ人は、スピグラをいまの35mmカメラくらいの感覚で撮っていた。さすがに8x10となるとそうはいかないのだが、できあがった画像で見るかぎり、小型カメラと大差ない絵というのは大いにある。たいしたものである。(大きなハンデ 右の8x10カメラはおそらくもっとも小型、軽量の部類だが、小型カメラとはけた違い。さらに三脚、フィルムが要る)
 座礁した大きな貨物船を大判で撮った作品をみたことがある。バイテンで超広角という話だったが、濱に乗り上げているのを下から見上げる絵柄。船底をさらしてそびえ立つ船腹の下に見物人が大勢いる。F64とかに絞り込んでのスローシャッターなので、かなりの人が動いていて、これが実にいい感じだった。
 大判の人たちがいう「高画質」でもなければ、報道が旨とする「状況説明」でもない。といってただの「記録」でもない。むろん「アート」でもない。ただ巨大な船がそこにあるだけ。絵柄としては多分、携帯カメラで撮ったものと大差ないだろう。しかし、存在感が違った。
 事件の現場だから報道も撮ったはずだが、小型カメラで撮ったものとは、ひと味もふた味も違う。報道にいた人間として正直、「やられたな。これが大判なんだな」と実感したものだった。ただ、そういう目で見た人は、あまりいなかったようだ。大判を本気で撮っていないと、わからないかもしれない。また、撮影者の意図は違うのかもしれないし、この辺りはなかなか微妙である。
 小型カメラなら、広角レンズで寄ることもできるし、少し引いて望遠で撮ることもできる。しかし、大判はそんな融通はきかない。広角はまだしも、望遠となるとレンズが大きくなり過ぎる。大判はよろず不自由なのである。だから、できる写真も不自由になるのは仕方がない。それを承知の上での勝負——だからこそドンキホーテ。しかし、考えてみれば、古い写真はみなこうである。写真に境目なんかない。(上は日本リンホフクラブの大判セミナーで。下は浅草・伝法院の散策)  
◆撮らなくてもいい写真
 かつて、ライカなどの小型カメラが登場したとき、真っ先に使ったのは、社会派の軽い写真を撮るカメラマンだった(むろん、重い写真だって撮れるが)。多くはスナップであり決定的瞬間であり、カメラの特性から生まれた新しい写真だった。
 まだ不自由な大判カメラで撮っていた報道写真の連中は、そうしたカメラマンたちを、「撮っても撮らなくてもいい写真を撮る人たち」と呼んだ。そう呼ばれたのが木村伊兵衛土門拳だったのだから恐れ入るが、けだし名言ではある。
 写真はうまいかもしれない。が、チャラチャラ撮っている連中だからと、事件の現場なんかでは、報道の連中から「どいてどいて」なんていわれていたらしい。不自由は不自由なりに、使命感があった。出来不出来はともかく、報道の写真は「撮らなくてはならない写真」だったからだ。即ち写真の原点、記録である。
 この話をしてくれた元新聞のカメラマンはまた、「うまい下手じゃなくて、時がいい写真にするんです」ともいっていた。それ自体はつまらない状況説明や記念写真に近いものでも、時が経てば様々な意味をもつようになる。それが記録というものだと。まさしくその通りだろう。
 しかし実際に、記録や報道で撮っている人間は、ほんの一握りにすぎない。圧倒的多数の写真好きが撮っているのは、「撮っても撮らなくてもいい写真」ばかりである。とくにデジタルになってからは、フィルムのコストを考えなくていいからだろう、メモや日記がわりに、あるいはレストランで食べる料理やワインのボトルまで撮ったりするようになった。
 これで少なくとも、これまで写真を傲慢に隔てていた垣根みたいなものは、力づくで押しつぶされてしまった。アートという垣根である。その多くは、名のある写真家の思い入れや心象風景であり、写真雑誌のグラビアを飾って、アマチュアのお手本になるものであった。ただしそれらは、普通の人が無邪気に撮った写真を拒否していた。家族写真やペットの写真は、写真のうちにいれてもらえなかったのである。
 しかし、そうしたアート写真が、50年経っても普遍的であるなどと、だれがいえるだろう。それよりも、新宿駅やヨドバシの店の前で人の流れを撮った1枚は、時が経つと自ずと語り出す。何年経っても語り続ける。そしてそれらは誰でも撮れる写真なのである。
アンデパンダンのエネルギー
 先頃新宿で、そうした「誰でも写真」がずらりと並べられた写真展があった。日本写真協会の主催で、1000人の写真展「私のこの一枚」という。参加料を払えば、だれでも写真を並べられる。お偉い写真家先生の審査なんてものがないアンデパンダンである。(上の写真)
 まあありとあらゆる写真が並んだ。思い出写真あり、記念写真あり、スナップ写真あり。押し付けがましいアートなんぞはかすんでしまう。そのエネルギーのすさまじさに、ほんの一部を見ただけでへとへとになった。しかし、来ている人たちの何と楽しそうだったことか。これこそが写真。写真には上手も下手も、まして垣根なんかないのだ。
 サクラの頃だったが、誘われてスカイツリーを撮りにいった。まあ、どんな高級カメラでどう撮ったところで、どうにもならない被写体なのだが、小ぶりの大判をかついでいった。小型カメラももっていたし、携帯カメラもあった。何で撮ろうとスカイツリースカイツリー。上手に撮る必要もない。
 沢山のカメラマンが撮っていた。ちゃんとした機材もあるが、大方は携帯カメラ。この数たるやどれくらいになるか。大判写真は明らかに、この側に立つものである。ズームで切り取るわけでもなく、あるがままに被写体と向き合う。動いているものは撮れないが、撮ること自体が楽しい。それでいいではないか。(上は大判、下は小型カメラでのスナップ)

 この時はシャッターが壊れて、大判は1枚しか撮れなかったが、途中でバイテンで撮っている人に出会った。大きなバレルレンズなので、「シャッターはどうするんですか?」と聞いたら、嬉しそうにソーントン・シャッターを見せてくれた。なんとありがたいことに、写真工業の連載を読んでくれていた人だった。私のたわごとも少しは役に立っているらしい。
 さて本題に戻ろう。大判でも撮れる写真とは、どんなものか。展覧会の写真をここに出すのは難しいから、手元の写真集とか、ネットや新聞で目にしたものから、思い浮かぶままに取り上げてみよう。
 東京新聞に、「忠犬ハチ公 晩年の写真」というのが載った。死ぬ1年前の実に堂々とした姿。写真を持っていた家族と一緒に写っているのだが、大きいのに驚いた。渋谷駅前の銅像だと、柴犬くらいにしか見えないが、さすが秋田犬だ。いまならこんな大きなイヌが放し飼いになっていたら、美談どころか、たちまち捕獲されて処分されちまう。(東京新聞 2010年7月3日付け)
◆時が作る写真
 この写真、まさしく「時がいい写真にした」好例である。昭和9年の撮影で、すでに渋谷駅前に銅像も建っていた。家族はみな着飾っているから、どうやら、その有名な忠犬ハチ公を迎えて記念写真を撮ったものらしい。人と一緒だから、ハチ公の大きさがよくわかる。
 写真はこの春、白根記念渋谷区郷土博物館・文学館に寄贈された。寄贈した婦人(80)によると、場所は神宮前の自宅で、当時ハチ公の面倒をみていた植木職人が連れてきた。婦人はまだ3、4歳で、写真の左端の女の子。なぜ写真を撮ったのかはわからない。「ハチ公はおとなしかった」という。博物館によると、ハチ公の写真は案外少ないのだそうだ。
 有名な犬と写真に納まるんだと、人間の方が緊張しているのが面白い。なのに翌年、ハチ公は渋谷駅近くの道端で死ぬ。どうして?と詮索したくもなる。写真を見る目は、人それぞれだろうが、1枚くらい、詮索される写真を撮ってみたいものである。
 わたしは集合写真を撮ることが多いが、これで多くのヒントをもらえるのが、意外かもしれないがファッション写真である。リチャード・アヴェドン、アンディ・ウォーホル、とりわけアーヴィング・ペンは、ポートレート、群像のコンポジションがすばらしい。http://lens.blogs.nytimes.com/2009/10/07/parting-glance-irving-penn/

 ただ、わたしが撮るのは、普通のおじさん、おばさんばかりだから、ペンにならうには、まずはモデルの教育から始めないといけない。ここにあげた立木義浩は、アイデアである。ファッションを笑いのめした視点がなんともいえない。さすが立木だが、これも素人には真似のできない仕掛けかもしれない。
 コンポジションといえば植田正治がいる。鳥取砂丘に家族や近所の子どもたちを配した、独特の世界。http://fotonoma.jp/photographer/2000_09ueda/index.html

 ちょっと真似てみたくなるが、こちらが相当厚かましくならないないとできそうもない。一度浅草の仲見世でそれらしいものを試みたことがあったが、こちらの意図が伝わらないうえに、役者がみな大根で、どうにもならなかった。(上と下、「昭和をとらえた写真家の目」朝日新聞社刊から。右は植田正治写真展のHPから)
◆スリルも撮ってみたい 
 小型カメラで撮った動きのある写真でも、「大判でも撮れるんじゃないか」と思うものがある。ここにあげた秋山亮二の宮島の1枚は、一度見たら忘れない写真である。若い人には何だかわからないかもしれないが、昔は昼間でも逆光にはこうしてマグネシウムを焚いたものだ。

 秋山は当然ライカで撮っているに違いないが、これは予測がつく画面だ。写真師が客を並べ、ピントを合わせて、マグネシウムを準備して‥‥と時間がかかる。それを、じっと待って撮ったものだから、これなら大判でも撮れるはず。予測がつかないのはマグネシウムの煙で、こればかりは、ライカでも大判でも一発勝負になるだろう。こういうスリルのある場面は、見ていて楽しい。ニューヨークの町中で撮った、大判によるファッション写真なんかにもよくある。
 撮りたいものを素直に撮る。誰はばかることもない。結果にいい悪いはあるだろうが、「わあ、面白い」といってもらえれば大成功。写真とはそういうものであろう。全ては「撮らないといけない写真」なのである。
 ただ、大判だけは、強い意欲の上に暗箱担いで三脚担いで、という力仕事になる。ピントグラスをのぞく手間(老眼にはきつい)を考えても、本来若いうちにやるのがいちばんなのだが、大判というとなぜか年配の人が多い。おかしなことである。

ベス単遊びは病気か

 植田正治に、ベス単で撮った作品群があって、これがなかなかいい。植田といえば、鳥取砂丘での一連のコンポジションが浮かぶが、ベス単の作品では、素直にレンズが作り出す独特の効果を楽しんでいる。おそらく「ベス単フードはずし」である。

 植田は若くして郷里の鳥取に写真館をもち、写真を生業としながら、生真面目に独自の作品を撮り続けたことで知られる。だから「ベス単」のマニアックなソフト画面はいささか意外だ。(写真集「植田正治の純白の抒情」。上が「回想のフランス」から、下が「白い風」から)
 「ベス単」はベスト・ポケット・コダック。ベスト判の単玉レンズつき蛇腹カメラだ。1枚レンズは収差が大きいが、前面に絞りをつけて絞り込めば、ほどほどにシャープな絵が撮れる。コダックはすでにブローニー判でこれをやって、安くてよく写るカメラとして一時代を築いた。ベス単は、それをさらに小型にしたものだ。
◆ベス単で大判は撮れるか?
 しかし、あくまで初心者用だから、写真家が作品を撮るカメラではない。現代の物好きが注目したのはレンズだ。前面のフードによる絞り込みをはずしてしまうと、開けっぴろげになった1枚玉は収差がもろに出て、画面はフレアでいっぱいになる。そのもやもやが面白いというのである。

 ただしカメラは安物だし、フィルムも頼りないというので、実際は一眼レフレンズの鏡胴にはめ込んで、35ミリ判や645判で撮るのが普通だ。確かに近代レンズではこんな写りのものはないから、面白いことは面白い。とはいえ、いってみれば際物遊びだ。下手をすれば、ただのひとりよがりになってしまう。
 植田正治は、画面から見ると35ミリ一眼レフで撮ったようだ。が、さすがは植田で、フレアの効果を実に巧みにつかまえて、見事な作品に仕上げている。ベス単レンズはシンプルだから、カラーの発色も決して悪くない。このあたりの計算が、「ベス単」好きにはたまらないお手本になるらしい。
 友人に好きなのがいて、あるとき「大判で撮ってみようか」という話になった。久しぶりに面白い遊びになりそうだが、さてカメラを何にするか。なにしろベス単レンズは焦点距離が75ミリだから大判は厳しい。手札のフィールドカメラでライカ用のエルマー90ミリを使ったときでも、蛇腹をぴったりと畳んでようやくだった。それより短いのだから、凹みボードをつけないと無限大が来ないことになる。これは面倒だ。
 候補はいくつかあったが、ベルクハイルを手札に改造したものが、よさそうだとなった。レンズ交換式の9x12センチ判に、アメリカの手札スプリングバックがついている珍品だ。レンズ交換のリングの形にボードを作れば、小さなレンズをかませることができる。現物を持ち込んだら、友人はアルミ板を削ってあっという間に作ってしまった。1時間半くらいだったという。(ベス単レンズを装着したベルクハイル。これでやっと無限大)
 このベス単レンズは最初期のもので、ショットのガラスなので性能がいいのだそうだ。そのせいか、初期型はフードのアナが大きく、わざわざ「フードはずし」をする必要はないのだという。アナが小さくなった後期のベス単レンズは、フードをはずすと、絵が壊れて見事もやもやになるのだと。まあ、ご苦労様な遊びである。
◆あてがはずれたピクトリアリズム
 ちょうど世田谷美術館で、フランスの写真家フェリックス・ティオリエの写真展が始まった。「いま蘇る19世紀末のピクトリアリズム」とある。これは面白い。対抗して昔のソフトレンズで美術館と砧公園界隈でも撮ってみようかというアイデアが浮かんだ。ベス単も間に合ったので、「今様ピクトリアリズム」競演をもくろんだ。
 実は、ティオリエ(1842-1914)という名前は知らなかった。そのはずで、彼は生前まったく作品を公開しなかったのだそうだ。子孫が古いプリントを発掘して紹介し始めたのが1980年代で、その後NYの近代美術館やパリのオルセー美術館などで展覧会が開かれて、知られるようになった。ウジェーヌ・アジェ(1856-1927)よりひとまわりほど年上になる。
 アジェだって、作品の記録的な意味合いを政府が認めて買い上げなければ同じだったかもしれない。ジャック=アンリ・ラルティーグも、ただアマチュアとして長年家族を撮り続けただけだった。フランスには、まだまだそんなのがいるのかもしれない。面白い国である。
 しかし写真展は、あてがはずれた。結論から言うと、「ピクトリアリズム」をうたい文句にしていたのが、実はそうではなかったのである。ピクトリアリズムは19世紀末にイギリスからはじまり、アメリカで花開いて1910年代まで続いた写真の芸術運動だ。絵画的な絵づくりを目指して、風景や静物、肖像などを「写真らしくない写真」に仕上げたものである。
 しかし、ティオリエはそうではなかった。作品を見るかぎり、彼はひたすら写真を追求している。まずは家族や友人の肖像があり、パリの風景があり、南フランスの農村や産業、彼が愛したフランスの史跡や自然‥‥そして晩年は始まったばかりのカラー撮影を試みていた。
 撮影年代も多くは「1890-1910」と恐ろしく大づかみ(つまり特定できていない)で、時代的には確かに一致するのだが、意図的に画面を作り出そうというピクトリアリズムの芸術志向とはほとんど正反対。ピクトリアリズムの存在すら知っていたかどうか、そんな感じだった。(ティオリエが使ったフランス暗箱があった。操作の仕方が書いてあったが、実際に撮ったことがない人が書いたようだった)

◆雨の中のもやもや較べ
 会場に展示してあった暗箱カメラは、フランス独特のテイルボード・スタイル。18x24センチ判はアジェと同じだ。これに差し込み絞りのエルマジスのレンズがついていた。形といい造りといい、後に「Chambre de Voyage(旅行カメラ)」と呼ばれるものの原型で、造りとしては湿板カメラに近い。ティオリエが若い頃に使ったカメラかもしれない。
 というのは、フィルムも若干展示されていたが、カラーも含めてどれも9x12センチと小さかった。展示されたものとは別の、おそらくもっと新しいカメラだ。作品はそれを引き延ばしたものがほとんどで、古い大判のシャープネスを示すものは多くなかった。
 しかし、オリジナルのゼラチン・シルバー・プリント168点の迫力はなかなかである。大判らしい肖像写真、スナップに近いパリや旅行先でのショット、南仏の自然を追った光と陰‥‥とにかく意欲的だ。なかに、子どもと一緒にクジャクがいたり、ロバの背中にイヌが乗っていたりする写真があって、はじめは「大判か」とびっくりしたが、フィルムサイズを見て納得したのだった。(フェリックス・ティオリエ展は、7月25日まで)(雨の中、ベス単での撮影。デジカメの方がちゃんと写っている。撮影:大西あけみさん)


 かくて、ピクトリアリズムの対決はならなかったが、ぼけレンズの撮影だけはやった。生憎の雨のなか仲間も何人か来てくれたが、半分はレンズ目当てだった。それもベス単ではなく別のレンズーー幻といわれるピンカムスミスのシンセティックという単玉レンズである。これまで何度か試みたが、あまりのもやもや描写にお手上げだったレンズだ。
 これ、造りとしてはベス単と同じなのである。ただ、ベス単が75ミリで手札にも届かないのに対して、シンセティックは堂々8インチで、5x7(インチ、以下同じ)まで楽々といく。ただし、写りはもやもやで、かのベリートも真っ青。この日は4x5だったが、結果はベス単の方がよほどしっかりしていた。ピントグラスを見ても「ピント来てるかな」「うーん、どうかな」という騒ぎ。雨の中、ご苦労様な話だった。(ベス単の結果。手札の真ん中に丸く写った。Bergheil 9x12cm使用。下はトリミングしたもの。しっかりした絵だ)
◆ぼけレンズ元年
 そもそも1枚玉(メニスカス)は、ダゲレオタイプの時代からのもの、いや正確には、それ以前からあったものをダゲールが使っただけのことである。F16とか暗いものをさらに絞り込んで、長時間露光でシャープな写真を撮ったのである。
 しかし、その絞りをどんどん開いていくと、もとは18世紀に考案された2枚張り合わせの色消しレンズ(アクロマート)にすぎないから、収差がもろに出てくる。フレアは出るわ歪みはあるわで、ひどいことになる。「ベス単フードはずし」と同じである。
 しかしこれがピクトリアリズムの写真家たちに珍重されたのだった。「絵画のような写真を」というピクトリアリズムは、まずは「シャープネスよさらば」である。同じ頃、絵画の世界でも印象派が起こって、「写真のような絵」から決別するのだからややこしい。とにかく人間はへそ曲がりなのだ。
 この需要に応えて、多くのソフトフォーカス・レンズが作られた。その最初といわれるのが、ピンカムスミス(P&S)だった。もとはウイリアム・ピンカムとヘンリー・スミスがボストンに開いたメガネ屋である。
 カメラ用レンズも作っていたらしく、あるとき写真家が、ダルメーヤー・ポートレートを持ち込んで「コピーを作れないか」といってきた。ヘンリー・スミスと技術者のウォルター・ウルフは、コピーではなく独自のソフトフォーカスレンズを作ってしまう。それが「セミアクロマチック」。名前からいって、わざと色収差を残したレンズだったらしい。
 それまでのソフトレンズは、みなラピッド・レクチリネア(RR)かペッツバールの変形、あるいは組み合わせで、いってみれば天然ぼけだった。ところがピンカムスミスのは、意図的に収差を残した点で、まったく違ったものだったという。時に1901年、ぼけレンズ元年である。(幻のP&S Synthetic 8in. F5。ガラスの見える方が後ろ。フランス暗箱Lorillon 4x5に装着)
 おそらく,町の小さなメガネ屋だからこそできたのだろう。すでにテッサーの時代だというのに、技術的には19世紀中頃のレンズを作ったのだから。近代化を目指していた名のあるメーカーには、思いも及ばぬ発想だった。

 P&Sはさらに、「ビジュアル・クオリティー」「シンセティック」など独特のレンズを作り、ピクトリアル・レンズというカテゴリーも生まれた。これに刺激されて、ウォーレンサックやテーラー・ホブソン、フォクとレンダーなどが、独自のソフトフォーカス・レンズを作るのである。前回「かとう写真館」で登場したクーク・ポートレートもそのひとつだ。
 だがP&Sは、ピクトリアリズムの終焉とともに歴史から姿を消す。その詳細はよくわからない。そしてレンズはというと、数がきわめて少ないために、話に聞くばかりで、見たことはおろか持ってるという話すら聞いたことがない「幻のレンズ」だった。(シンセティックの写り‥‥ピントのヤマが見えない。木の枝と葉が奇妙だが、傘の模様だけはっきり。不思議な写りだ)
◆1枚玉の面白さ
 ところが、これが思わぬ手近にあった。いつも機材や知恵で助けてくださっている城靖治さんが、「幻のレンズ」を2本も持っていたのである。

 ひとつは「ビジュアル・クオリティー(VQ)12インチ? F4」という、口径10センチを超える巨大レンズである。構成は2枚張り合わせを対にしたダブレットで、20年後のニコラ・ペルシャイトと同じ。見かけといい写りといい、ニコペルがお手本にしたのではないかと疑っているレンズだ。
 もうひとつが、今回の「シンセティック、8インチ、F5」という外径64ミリの1枚玉である。見かけも奇妙で、後ろに向かって大きく出目金になっている。ベリートと違って、絞り込んでも絵がよくならない不思議なレンズだ。VQがピンカムスミスの代表とすれば、まあ、鬼っ子といっていいかもしれない。
 1枚玉というのは融通無碍で実に面白いレンズである。絞りを小さくすればシャープな絵が撮れて、絞りを開ければ「ベス単フードはずし」にもなる。ただ、ピクトリアリズムの頃の1枚玉は、絞りを開けないような造りが多い。安くてシャープなレンズだったはずだ。
 当時のものがいくつか手元にあるが、完全に開けるのはダゲレオタイプ・湿板時代の1本だけ。これは相当なもやもやにもなるし面白いレンズだ。他のレンズは開放にしても大方シャープで、なかには「エッ!」と驚くほどのものもある。ただし、1枚玉の収差はあるから、ほどほどに周辺が崩れたりして、いまのレンズにはない味わいがある。それをのみこんで、どんな被写体に活かすか、ここが遊びどころになる。
(上は単玉レンズのいろいろ。現代レンズとは大いに違う写りが面白い。左はコダック・ブローニー単玉の写り。後ろのぼけはすごいが、合焦はしっかり。アオリもちゃんと効いている。ディアドルフV5 4x5back、Kodak 110mm)
 面白かったのは、今回のベス単の絵より、植田正治のベス単の方がシンセティックに近いことだった。明らかに「フードはずし」である。ピントの合わせにくさにもかかわらず、フレアの具合を的確につかまえているから、一眼レフは間違いない。
 この画像をみていると、あらためて、シンセティックの使い道が見えてくるような気がする。ソフト志向を考えるうえでも、多くの示唆を与えてくれる。さすが植田正治である。

さがみ野のアンソニー

 「厚木の『かとう写真館』を取材してみませんか」と誘いを受けたのは2月の初めころだった。小田原のカメラマン西山浩明さんからである。加藤芳明さんを紹介してくれたのも西山さんで、何度か撮影会やだべり会を重ねていたが、加藤さんがどんな写真を撮っているのかは、知らなかった。
 しかし、メールに添えられた写真がすごかった。8x10(インチ、以下同じ)が5台、5x7が1台とバレルレンズがずらり。バイテンには5x7と4x5のバックがついているものもある。しかも、ジナーの8x10以外は全部クラシックの木製である。
 写真館だから、ライティングは自在のはず。おまけに、暗室で現像までやりましょうという話。大判をやったことのある人はおわかりだろうが、アマがいちばん苦労するのが、現像・焼き付けだ。加藤さんはその仕事の場を貸してくれるという、まあ、夢のような話である。(右写真 撮影:西山浩明さん)
 ただ、商業写真館は、3月4月は卒業式だ入学式だと忙しい。そこで、これらが一段落した4月の後半あたりになるだろうと、そんな話であった。
◆たちまちカメラ考古学
 加藤さんのカメラで、気になったのが木製のアンソニーだった。写真では加藤さんの首の高さまであって、頑丈な木製の2本支柱に、キャスターのある鋳物の足がついている。おまけに大きなスライディングバックがあるようで、どう見ても戦前の写真館御用達の造りである。加藤さんは2代目なのかな?
 聞いてみると、他のカメラは、ジナーはいいとして、木製のフィールドがディアドルフとナガオカ、それともう1台が2Dタイプのアンスコ。以上がバイテンで、5x7も2D型のコロナだという。これに、レンズが10本ばかり。なかに真鍮の古そうなのが4、5本ある。
 とりあわせが妙なうえに、木製カメラが多すぎる。いまどき木製カメラで仕事をしている写真館なんてないだろうから、これらはやはり趣味か、それでも撮影できるようにいろいろ細工をしているな、などと思いを巡らした。

(左から、城靖治さん 撮影:柳沢/城夫人 撮影:柴田剛さん/大西あけみさん 撮影:城さん)
 こういうとき、真っ先に目がいくのがレンズボードである。ディアドルフとジナーは大きさがわかるから、そこから類推する。ジナーシャッターがいくつかあるので、どうやらジナーとリンホフでシステムを組んであるらしい。すると、コダック2Dタイプの6インチボードはダメか? わたしのがらくたアクセサリーは使えないかな? 写真をにらんでいろいろ考えるのも、なかなかに楽しいものである。

 これが、ライカコンタックスだったら、うるさい連中はいくらもいるのだが、寂しいことに、木製カメラでは話をする相手も少ない。また、大判の実践に参加する人は限られるから、だれに声をかけるか頭を悩ますことになる。大判というのは、撮る気にならないと話が始まらないし、ポートレートに関心がない人もけっこう多いからだ。
 結局、可能性のありそうなごく少数の大判族のほかに、近くに住む人たち、またモデルになってくれそうな人たちを選んで、やや多めに声をかけた。「撮る人は、フィルムだけもってくればOK。現像液はD-76です」。来ても来なくてもけっこう。遅れて来ても先に消えてもご自由に、といういつもの方式である。
◆写真師気分で大満足
 結局4月18日になった。前日は東京に雪が降って、震え上がる寒さだったが、当日は晴れ上がって、本厚木の駅からは丹沢の山並みが、少し雪をかぶってきれいに見えた。学生時代によく、わらじをはいて沢登りに行った懐かしい山である。
 「かとう写真館」は駅からほんの5分のところ、路地を少し入った住宅街にあった。飾り気のない写場にはアンソニーがデンと置いてある。聞けば、元のバックははずして、ナガオカで8x10、5x7、4x5をあつらえたのだという。ボードにはジナーシャッター。これならバレルレンズでも何でもござれだ。
 「何人来るか、来てみないとわかりませんよ」という調子だったが、集まったのはヤジ馬も含めて10人。これに加藤、西山両プロが加わると、写場は人でいっぱいになった。集まったうちの6人が大判族で、5人が撮って4人がその場で現像までやったのだから立派な実践セミナーである。それもアンソニーを使ってだから、気分はもう、昔の写真師そのものだ。(右は小西岳さん 撮影:柳沢)
 といっても、モデルなんてシャレたものはいないから、仲間同士の撮りっこである。ヤジ馬はもちろん、撮る方もモデルになった。自分が写されたときに、どういう結果になるか。これ実は、重要なレッスンになる。ポートレートは写す側と写される側の共同作業——この基本を体感するには、モデルになるのがいちばん早い。
 大判ポートレートは、写される側がその気になっていないと、絶対にいい結果は出ない。写真館に来る客は当然そのつもり。職業モデルなら、これも十分ノリノリだろう。ところが仲間同士だと、生半可な気分がそのまま写ってしまうことが多い。写されて、自分がその顔に写ったときに、「こりゃいかん」と初めて気づくのである。
 被写体をその気にさせるのも、写真師の仕事のうちだろうが、わたしは常々「写らないのはお前が悪い」で通しているものだから、いい結果はなかなか出ない。この日の記念写真をお見せしよう。写す人たちと写される人たちとの微妙な表情の差。乗りの違いというやつだ。ひと声かけたらずっとよくなったはず。おわかりいただけるだろうか。(これはナガオカ8x10で。失敗。集合写真に広角を使ってしまったのと、アオリに気をとられてカメラが上を向いているのに気づかず)
◆素性不明のアンソニー
 さて、この日の主役はアンソニーである。ポートレート専用にいつでもスタンバイという、写真館でしかお目にかかれない代物だ。エレベーターもチルトも蛇腹の伸縮も、回転ハンドルでスムーズに動く。実に扱いやすく、かつ正確だ。三脚をパタパタ組み立てるいつものバイテンが、幼稚園程度に思えてくる。
 加藤さんは2代目ではなかった。写真館は30年になるそうだが、アンソニーは最近オークションで手に入れたとかで、クラシック病にかかったためらしい。このアンソニーはボディーに「MORITO WORKS TOKYO JAPAN」と書いた小さなプレートがついているだけ。加藤さんは、「レンズボードを包んであった紙に、『大正』と書いてあった」という。
 バックを作った長岡啓一郎さんによると「日本でいちばん最初にアンソニーをつくったところ。六桜社や浅沼商会のキングより前」というから、昭和10年頃にはもう作ってなかったらしい。



 しかし、木といい塗りといい金具といい見事な造りで、メッキがはげたりはあるが、いまも完璧に動く。加藤さんも「こんなに撮りやすいとは思わなかった」という。ただしお客さん用ではなく、もっぱら趣味の撮影に使っているそうで、その作品が何枚か、窓際の壁にかかっていた。これがなかなかいい感じである。
 「アンソニー」という呼び方は、日本では写場用大型カメラの通称になっている。初期にはアメリカのアンソニー製しかなかったからだろう。「ジープ」とか「アクアラング」と同じことだが、わざわざ「Anthony」と書いた日本製も見たことがある。写真がまだ写真師のものだった時代のものである。(上、小西さん、右、西山さん。互いに撮りっこの結果)
 そうしたアンソニーは、博物館に入ったり、オークションにかかればまだいい方で、倉庫のすみで朽ち果てたり、捨てられたりが大半だろう。普通の家には置けない大きさなのだから仕方がない。博物館には確かにいいものがあるが、どこも「手を触れないでください」だから、一般の人はおろか、写真家でも触ったことがある人は少ないはずだ。
 その点、「かとう写真館」のは、触り放題である。おまけにジナーシャッターつきだから、ストロボでもいける。というので、この日の露出とライティングは加藤さんと西山さんにおまかせ。参加者は、ピントを合わせてシャッターを押すだけ、というまことに楽ちんな撮影となった。
◆レンズ探求はみんなの仕事
 「かとう写真館」のもうひとつの注目はレンズだ。クーク・ポートレート(12インチ3/4)はいわずと知れたソフトフォーカスの王様。テーラー・ホブソンは、見た目の美しさではナンバーワンである。バレルでは他にコマーシャル・エクター、シュタインハイルやらなにやら、RRからペッツバールまで。シャッターつきでは、コダックポートレート、ワイドフィールド・エクター、ヘリアー、ザッツ・プラズマットなどゾロゾロとある。(西山さんと加藤さん 撮影:小西さん)
 とくにでっかいバレルレンズは、そもそもアンソニーとはそのために作られたようなものだから、もう相性ぴったりである。何の心配もなしに楽々と撮れる。ただジナーシャッターが一時不調になって、立往生した。ジナー専用レンズ用の自動絞りの突起がボードにぶつかっていたのだった。自動でない古いタイプの方がバレルレンズには無難というわけだ。自動絞りなんてバレルには余分なものなのだから当たり前か。
 これらのレンズは、加藤さんもまだ十分には使っていないらしい。35ミリみたいにポカポカ撮って試すわけにはいかないのだから当然で、ここはひとつ、みんなで乗り込んで撮ってやる必要がある。そう「加藤さんのものはオレのもの」の精神である。結果をちゃんと加藤さんに見てもらえばよろしい。そうすれば加藤さんも幸せ、われわれも幸せ。大判の実用派だけにわかる世界である。
 参加者の中で、小西岳さんはバイテンは初めてだったが、結果はご覧の通り見事なものだった。モデルとしても西鉄のユニフォームを着込んだりして、やる気まんまん。役者ぶりとしてはまだ大根の部類だろうが、こうした意気込みが大判ポートレートの可能性を開くものだと、わたしは思っている。
◆次回は丹沢山麓で?
 彼の結果がよかった理由の大部分は、アンソニーにある。おそらく、彼が日頃撮っている4x5や5x7よりもはるかに楽に撮れたはずだ。これから普通の8x10に触ってみれば、その違いがわかる。アンソニーがいかに素晴らしいか。しかし、アンソニーは写場の外には出られない。
 発想を逆にすると、博物館の写真のイベントなどでうまく使うと、いい人寄せになると常々思っているのだが、博物館はどうしても触られるのを嫌う。カメラは撮ってみてこそなんぼのものなのに‥‥。
 とにもかくにもアンソニーのお陰で、この日はバイテン以外のサイズも楽々こなせたし、レンズもまずブランドものはひと通りいけたはずである。それぞれの特性にあった使い方、撮り方ができたかどうかは、いろいろ撮ってみてこそ。レンズは沢山撮らないとわからない。(上は陽気な葬式写真のつもり。撮影:城さん。下は、8x10のプラチナプリント 撮影・プリント:田村政実さん=六本木・田村写真)
 とくにアマは撮る枚数が少ないから、だれもが同じところにいるといっていいだろう。キャリアが多少長いといっても、ほんの30枚40枚余分に撮ったというだけのことなのだから。それよりも、互いの撮ったものを見て、ああだこうだいう場を多くした方がプラスになるかもしれない。大判はプリントするのも大変だから、実はこれがなかなか難しいのだが‥‥。
 終わってありがたいことに、加藤さんが「またやりましょうよ」といってくれた。参加者も「またやりたい」なんていっている。うん、陽気が良くなったら、厚木への遠足は悪くないかも。なにしろ丹沢の山懐だ。今度はフィールドへ出て山でも撮ってみたら、レンズの新たな特性を発見できるかもしれない。
(写真をクリックすると拡大され、レンズなどのデータが出ます。この日の撮影は、どれもF8でした)

禁じ手は自由の証

 大判を始める人は普通、ナガオカとかにフジノンやニッコールをつけたりしてスタートするものだ。レンズにはむろんコパルやコンパーのシャッターがついていて、概ね正しい露出が出せる。あとは、何を撮るかだ。そう難しいことではない。
 わたしは少し違った。初めて手にしたのがおんぼろのスピグラだった。40年も前、駆け出しだった新聞の支局にあったものだ。もうニコンFの時代だったから写真部員も滅多に使わなかった。しかし、便利なパックフィルムもあるし、暗室もある。そこで、休日などに持ち出しては、風景や知人を撮ったりしていた。

 目がよかったから、ルーペなしでもピントグラスが見えたし、持ち歩きも苦にならなかったが、結果が出ないのには閉口した。ピントの微妙なずれである。とくに近接のポートレートは全滅に近かった。
(今回の写真はすべて禁じ手。左は最新のもの、東大総合研究博物館での動物の骨の展示)
◆大判を手持ちで撮っていた
 まあ、写真部員を真似て手持ちで撮っていたのだから、当然といえば当然。もし三脚を使っていたら、話は少し違ったかもしれないが、そもそも大判を撮っているという意識すらなかったのだから、仕方がない。
 グラフィックは撮りやすいから、ピント合わせの手間を除けば、マナーはオート以前の35ミリカメラと大差ない。ちょっとでかくてピントが薄いな、くらいの感じでしかなかったのである。だから、持ち場が変わって暗室と縁が切れると、それきりになった。
 再びグラフィックを手にしたのは20年後だった。が、こんどは目的がちょっと違った。どんなレンズでも使えるという点である。35ミリカメラのレンズマウントの制約にうんざりしていたころで、「ああ、昔のカメラはホントに自由だったんだな」と、関心はむしろそちらにあった。

 事実グラフィック(そのときはクラウン)は4x5(インチ、以下同じ)だから、まずどんなレンズでもいけるし、使い勝手もいい。ポラロイドなどを使って、主に老人施設に入っていた両親を撮った。車イスで動かないから撮りやすかったのだ。
 転機はひょんなことからやってきた。パリのカメラ屋で、妙なフランス暗箱を買ってしまったのである。バレルレンズつきで、バックの縦横の変換は蛇腹ごと回転する方式。「こいつぁ面白れぇ」と思ったのが運の尽き。当時は何だかわからなかったが、13x18センチ判の「旅行用暗箱=Chambre de Voyage」というヤツだった。(ジナーになった2台のイギリスカメラ。上がサンダーソン・トロピカル、下が無名フィールド)
◆撮れないカメラが転機になった
 しかし、カメラには撮り枠(フィルムホルダー)がなかったから写真が撮れない。これには弱った。そこへ偶然だが知人がディアドルフの4x5のバックをくれた。なんでそんなものをもっていたのかわからない。が、これをくっつければ撮れる、というので頼んだのが、前にちょっと触れた付け替えだった。フランスカメラが、いとも簡単にディアドルフになった。 
 これはもともと「禁じ手」だ。別にぶっ壊すわけではないが、カメラの本来とは違う使い方になる。クラシックカメラ使いはオリジナルを重んずるから、いかがわしいと嫌う人が多い。しかし、付け替えで見えてきた世界は、大いに開けたものだった。(下はカメラ仲間の忘年会。無名フィールドにジナーバックで)

 アメリカと違って、イギリスも大陸もバックの規格というものがない(偶然合うものはあるが)から、暗箱カメラごとに専用の撮り枠がないと、まず写真は撮れないものだ。ところが、アメリカ規格のスプリングバックをつけてしまえば、すべてアメリカカメラになってしまう。禁じ手から入ると、バックの制約がなくなってしまうのである。
 早い話が、世界中のありとあらゆる暗箱カメラが、ダゲレオタイプだろうと何だろうと、これによってアメリカカメラとして蘇るのである。博物館のカメラも現役に復帰する。以来、暗箱を見る目が変わった。どんな変てこな骨董カメラでも、写真が撮れるカメラとして見るようになった。
 さあこうなると大変だ。木製暗箱で造りがいちばん美しいのはイギリスカメラだが、バックがややこしいから撮りにくい。しかし、アメリカカメラにしてしまえば、カメラの顔はそのままに、アメリカの合理的なバックとフィルムで写真が撮れるのである。しかも木工工作だから、いつでも元に戻せる。
 まず手に入れたのは、サンダーソン・トロピカルの手札だった。これにジナーの4x5バックをつけた。バックの方が大きいのだが、木枠で少し下駄をはかせたらけられなかった。次が無名のハーフサイズのフィールドで、これも同じジナーにした。イギリスの顔をしたジナーが2台である。金属サイボーグのジナー本体で撮るより、なんとなく楽しい。木のぬくもりというヤツだろう。


◆禁じ手から見えてきた世界
 とくにフィールドカメラは、三脚が3本バラバラの木製だから、組み立てているだけで必ず「何だ、何だ」となる。このイギリスの知恵がなかなかのもので、一見頼りなさそうだが実に安定がよく、しかもカメラが回転する。これを見ると、たいていのヤツは仰天する。それが面白くて止まらなくなった。
 レンズ、シャッター、バック、レンズボード、アダプターの類い‥‥発見した機材はどれも、先人の知恵の結晶だ。それなりに合理的なものもあれば、今見ると吹き出しちゃうようなものもある。現物が目の前にあるのだから、これはもう、写真を撮るのとどっちが、というくらいの面白さである。しかも、それらを使ってちゃんと写真が撮れる。
 といっても、こちらは高感度のフィルムを使っているのだから、逆に「こんな道具でよく撮ったな」と、昔の人たちのワザに感服したり、写真そのものの奥深さも実感できるのだ。もしわたしが、ナガオカやコパルの定番でスタートしていたら、おそらく絶対に目にすることのなかった世界である。


 お陰で例えば、日本カメラ博物館や富士フォトサロンの博物館に並んでいる美しいバレルレンズをみても、わたしの目にはすべて現役だ。その場でただちにカメラにセットして撮影ができる代物なのである。
 残念なのは、こうした話を面白がってくれる人はいても、一緒にやろうというのがなかなか出てこないこと。長年のカメラ仲間にしてもそうである。みんな写されるのは大好きだが、自分で撮ってみようというのは、片手で数えるほどしかいない。
 かつて「アルパ研究会」で、ボシュロムのエアシャッターなぞもちだすわたしを見てチョートクさんが、「とんでもない方へいっちゃった」とあきれていたのを思い出す。チョートクさんは正統派だから、禁じ手の類いにはあまり興味を示さないが、意味合いは百も承知である。
 現にカメラもレンズもとんでもないものを持っているのだが、なにせせっかちな人だから、なかなか振り向いてくれないのである。(上は交通事故カメラの復元まで。左は4x5、左下は8x10のバックの付け替え。下はその8x10で撮ったアトリエ・イマン)
◆受難のフィールドカメラ
 さて、禁じ手の話に戻ろう。ジナーバックは完璧だから、大いに撮りまくったのだったが、難がひとつあった。金属バックは重くて、木製の本体との相性がいまひとつで、バランスも悪い。また、あとで手直しをした金具が、しばしば光線漏れを起こすようになって、かなり手痛い失敗もあった。
 本来の撮り枠(多くは乾板用)で撮ってみると、その違いがよくわかる。合理的で撮りやすければいいというわけじゃないなと。イギリスにはイギリスの、フランスにはフランスの、味とでもいうのだろうか、手間も時間もかかるやり方それ自体が、やっぱり意味を持っていることが、だんだんにわかってきたのだった。
 そんなとき、鎌倉で道路わきに三脚を立てておいたら、あろうことか車にはねられてバラバラになってしまった。和菓子屋をのぞいていたら、「ガシャーン」という音。飛び出してみると、立っていたはずのカメラが道路上に横たわっていて、無惨にもカメラ本体が裂けて、金具やビスが飛び散っている。
 車はそこに止まっていたが、それどころじゃない。本体は見た通りだが、三脚はどうか、ジナーバックとレンズが心配だった。幸いレンズ(クセノタール135ミリ)は無事だった。直接道路に当たらなかったらしい。ジナーバックもプロテクターがついていたので、ピントグラスが破損しただけ。直接ひっかけられた三脚は、木製の軟らかさのせいか折れてはいなかった。
 しかし、この間に車は消えていた。見事逃げられてしまったのだ。あまりのことに動転して、別にカメラをもっていたのに、車と運転手を撮ってもいなかった。なんというお粗末。
 カメラ自体は軽いから、ジナーバックとレンズの重さの方が倒れる衝撃を大きくしたと思う。が、ボディーが砕けたことで、レンズその他を救ったものらしかった。しかし、その残骸は無惨なものだった。ビスの一つひとつまで丁寧に集めて、持ち帰ったのだが、もうジナーバックをつける気にはならなかった。
 その後、ジナーそのものも手放し、フィールドカメラも3年以上もほったらかし。ようやく復元できたのは2年前、知り合いが「やってみましょう」と引き受けてくれたのだったが、これを機にバックは木製の5x7にして、軽いので以来5x7の主力になっている。

アメリカでは何でもあり 
 そんなわけで禁じ手はいまも、わたしの大判作法の中核になっている。最初のディアドルフ4x5バックは、いま別のフランスカメラについているし、バイテンのひとつは、イギリスのフルサイズ・カメラに細工したものである。この細工は大森・ルミエールの菊池千秋さんに助けてもらったのだが、傑作といっていいできである。
 こうしたバックは、アメリカのマーケットにはゴロゴロしていて、目についたものをぼちぼち買っていただけで、グラフィック4x5の新品のバックが2つ、木製の5x7と8x10がひとつずつ、ほかにキャビネや手札のスプリングバックもある。どんなカメラが現れても即応できるわけが、さすがにもうカメラを買う気はないから、これらにはもう行き場がない。
(上は浅草・伝法院で撮った古い写真だが、公開するのは初めて。モデルさんをわざわざ高いところに立たせたのだが、前に1人立ったために全体がぶちこわし、ブラックユーモアにもならなかった痛恨の1枚だ。おまけに光線引きがあったのを、初めてphotoshopで修正した)
 考えてみれば、バックだけが単独で売り買いされているというのも、おかしな話だ。はじめは「バックだけを本体から引きはがしたのか?」と、意味がわからなかった。が、そうではなく、これ自体がアメリカであり、また自由の象徴なのだった。
 世界最大のマーケットであるアメリカには、あらゆるカメラが集まった。サイズも各国さまざま。アメリカ人はそれを気ままに、都合のいいやり方で使った。まだ密着焼きの時代だ。大きい写真が欲しければ大きいバック、小さくてよければ小さいバックに変える。
 つまり、ひとつのカメラに大小いくつものバックは当たり前。木製だから、改造も簡単だ。メーカーもバックだけを売った。カメラは処分したのに、バックだけが残ったり‥‥それらがバラバラに流通しているのだ。アメリカでは、もともと写真とはそういうものだったのである。
 アメリカは何でもありだから、わたしのいう「禁じ手」なんぞは「当たり前田のクラッカー」。ディアドルフにグラフィックのバックをつけたりも平気。リンホフのバックがジナーサイズのベニヤ板にくっついていた、なんてのもあって、これにはあいた口が塞がらなかった。(写真上)
 ここまではさすがにつきあいきれないが、いまわたしがあるのは、ひとえにアメリカのお陰、自由のお陰。おおらかな大判王国サマサマなのである。