写真はどこまで芸術か

 東京都写真美術館の「芸術写真の精華」展は、久しぶりに写真を考える機会になった。サブタイトルが「日本のピクトリアリズム 珠玉の名品展」とあるから、いわずとしれた、日本の写真史に残る「あの時代」の作品展である。
 同館の友の会員向けの内覧会があったので、出かけていった。年寄りばかりかと思ったらそうでもない。しかし、そこで出た質問が「これ写真ですか?」というのだから面白い。確かにとても写真とはいえない、絵画そのものみたいな作品がずらり。レンズと乾板が撮る写真というものが、本道をそれてしまった、いわば鬼っ子みたいな時代である。(同展のポスター。写真は、高山正隆「楽器を持つ女」1924年
◆写真で雑巾がけ?
 本来のピクトリアリズムーーイギリスからアメリカに広がって前世紀初頭の一時期を謳歌した、あの中でも「ここまではやらなかった」というほどの作品づくりがある。写真家たちをとらえたのは、プリントであった。写真を撮るのは暗箱と乾板。ここまでは確かに写真なのだが、そこから先が違った。
 密着あるいは引き延ばしで、原版から印画をつくるのが写真である。われわれが日頃手にしているのは、いわゆる銀塩(ゼラチンシルバー)で、それですら。やれバライタがどうとかやかましいものだが、この時代の違いは、そんなものじゃなかった。
 ピグメント(顔料)印画法というのがそれで、でんぷんと重クロム酸カリの混合液が持つ感光性を利用して、アラビアゴムやにかわなどを混ぜて感光させ、これに顔料で印画を作り出す方法である。カーボン印画、ゴム印画、オイル印画、ブロムオイル印画などがあるが、共通しているのは、顔料の加減ひとつで、かなり自由に画像に手を加えることができることである。
 早い話が、要らないバックを塗りつぶしたり、トーンを変えたり、印画紙を曲げて像をゆがめたり、わざと筆の跡を残して絵画のような感じに仕立てることもできてしまう。さらに、ソフトフォーカス・レンズの効果と組み合わせたりすれば、ひと味もふた味も違ったものになる。写真家たちは、これにとらわれたのだった。
 また、ゼラチンシルバーでも、印画紙にオイルをしみこませておいて、これに油絵の具を塗り付けて、紙や布、脱脂綿などで拭き取っていく修正法がある。ゴシゴシやるので俗に「雑巾がけ」と呼ばれるもので、実は日本だけの独自技術。例のベス単のもやもや描写を利用したりして、本家の「ピクトリアリズム」を超えた絵が数多く残っている。(左は野島康三「髪梳く女」1914年、下は日高長太郎「山岳の雨」1918年、いずれもゴム印画。同展の図録から)


 いわば日本人の好奇心と探究心と器用さが生み出したもので、先の「これ写真ですか?」は、初めて見た人の正直な印象だった。「絵じゃないんですか」というわけである。技術の詳細はいくら聞いてもさっぱりわからないが、実際にやってる人にいわせると、「こんな楽しいことはない」のだそうだ。
◆作品はみな一点もの
 この写真展を構成した金子隆一氏によると、作品集めには相当苦労したらしい。作品の多くは遺族が所蔵しているのだが、ほとんどは値打ちのある作品と思っていない。また、コレクションしている人も、いわば変わり種写真として保存しているようで、数が少ないものが世界中に散らばっていて、さらに代が代わっていたりすれば、もうそれっきり。そんな作品ばかりなのだという。
 なぜそうなのかと聞いたら、「一点ものだから」という。つまり、同じ原版でも上がりは1枚1枚違うから、できたものは別ものになる。事実、いくつもコピーを作ることはしなかったものらしい。展示の中に「どこそこに別のプリントがある」と表示があったのは、むしろ「珍しいよ」という意味なのであった。
 そもそも、この時代の作品に目をつけた金子氏自身が、変わり者と見られていたらしい。そのあたりは氏も心得ていて、以前開いた写真展を見た写真誌の編集長が、「よかったよ」といったあとで、同行者に「金子君の世界だね」とささやいたのが聞こえたと、笑いながら話していた。(次も図録から。右は岩佐保雄「踏切を守る母子」1931年、ブロムオイル印画。下は小関庄太郎「海辺」1931年、ゼラチンシルバーに雑巾がけ)
 それはそうだろう。写真でソフトがどうとかいうのは、写真のもつ本来の特性(シャープネス、再現性)をいわば否定しているわけだから、危ない人たちか、一時の気の迷いかどちらかである。ひとつ間違うとひとりよがり、さらにはゲテモノと紙一重になりかねない。
 にもかかわらず、ソフトそれ自体は十分に面白いものだから話はややこしい。ソフトフォーカスは、写真好きならだれもが一度ははまり込むものだ。レンズがまた数が少なく神話、伝説めいているものだから、みな憧れる。ソフトレンズがいつの時代でも人気の所以である。
 レンズ遊びですらそうなのだから、「雑巾がけ」だのゴム印画だブロムオイルだとなると、もう完全にいっちゃってる人たちである。ただ、現像プロセスが必要で、レンズのようにお金で買えるものではないから、手がける人はやはり限られる。
◆辻褄は合っているか

 先頃、江古田の日大芸術学部であった研究科の修了制作展で、これが見られた。出展は4人だけで、フォトグラビア(銅版画技法)、ゼラチンシルバー、ブロムオイル、鶏卵紙と、それぞれ異なるプリントがモダンな形で並んでいた。
 さすがに写真専攻だから、ピクトリアリズムみたいなのはなかったが、ここであらためて、写真とプリントの意味を考えさせたれた。それぞれは面白いのだが、さて、本来のシャープな写真を、わざわざ古めかしいプリントに仕立てた必然性はあるのか。
 この写真展を褒めていた、六本木のラボ「田村写真」の田村政実さんも、「辻褄が合わないんですよね」といっていた。古い技法と自分の持っている写真の感性とが必ずしも一致しないということだろう。東写美の「ピクトリアリズム」を先に見て触発されていたら、面白いものができたかもしれないと、ちょっと惜しい気もした。
 この写真展では、フォトグラビアが面白かった。本来は19世紀の印刷技術だが、見慣れぬ質感が新鮮に見えたし、また十分にモダンであった。解説を読むと、パソコンを使ってポジを作ったのだそうで、その限りでは学生の感性と「辻褄が合って」いたのかもしれない。事実、かなりの写真家が、この技法で作品を作っているのだそうだ。面白いものである。
 以前「ベス単遊びは病気か?」と書いたことがあるが、本音は「か?」ではなくて「病気」だと思っている。わたしはドキュメンタリーからスタートしていて、アートにも無縁だから、わざわざもやもやした絵を撮るというのが、どうにも落ち着かない。まったく別の絵づくり、別の範疇の写真だと思っている。
 しかし、ピクトリアリズムの現物を目の当たりにすると、これはこれで、十分に独立するものかな、という気持ちにもなる。それが「芸術」かどうかなんてどうでもいい。作り手と受け手の波長が合えば、万々歳なのだから。
◆ゴム印画は命がけ?
 それにしても、どうやったらあんな感じが出せるのか。理屈なんかいくら読んでもわからないから、実際にやっている人に聞くしかない。というわけで「田村写真」へ出かけていった。ちょうど「雑巾がけ」のもとになるプラチナ・プリントの薬品が置いてあって、「塩化プラチナ」だの「パラジウム」だのと説明してくれたが、やっぱりわからない。
 わかったのは、「雑巾がけ」はレタッチ(修正技術)の延長みたいなもので、いわば簡易プロムオイルだということ。この方法は、浮いてくる絵の具をふきとるだけなので、1時間でできるが、ブロムオイルは1週間くらいかかるのだそうだ。
 本当のブロムオイルは、漂白した画面のゼラチンに顔料をコツコツと叩きつけていくので、最後のところで紙が破れたりしたら一巻の終わり。しかし雑巾がけは、失敗したと思ったらやり直しもできるのだという。日芸に出ていたのは本物の方で、これはなかなか難しいといっていた。
 もっと難しいのがゴム印画で、絵の具とアラビアゴムと重クロム酸カリを混ぜて紙に塗って 感光させるのだが、いっぺんに濃くはできないので、何度も露光を繰り返す。そこで原版とずれないような工夫も必要だし、長い時間猛毒のクロムに触れるから、「ゴム印画の作家はみな短命なんです」と恐ろしいことをいう。まだ、化学知識も十分でなかった時代だ。

 田村さんは文献にも詳しく、古い写真集をいろいろ出してきて説明してくれた。なかに大正15年(1925年)の「写真美術年鑑」という立派な写真集があった。「昭和元年か」「この頃が芸術写真のピークだったんです」。この年鑑は、「カメラレビュー」の編集長だった萩谷剛さんの蔵書で、田村さんは「私が借りていたので、助かったんです」という。
 何かと思ったら、萩谷さんは写真関係の膨大な蔵書を、福島・南相馬の親戚に預けてあったのが、今度の東日本大震災津波で流されてしまったのだという。まあ、なんという巡り合わせか。ご本人は、「そこにあってよかった」といっていたそうだが、貴重な文献がどれだけ失われたかを思うと、声のかけようもない。(上の3枚は写真美術年鑑から。左端は「気を写す」の有賀乕五郎の作品)
◆芸術でも何でもない
 話を戻すと、これらの手法がすたれたのは、手間がかかるという一点である。田村さんによると、昭和の初めのドイツ・マルクの暴落で、カメラが安く買えるようになったのも関係するという。だれでも写真が撮れるようになって、写真自体が芸術志向からいわば本道に戻ったのである。
 この頃の芸術派は、安いベス単を使ってさらにプリントにこだわるのが本流だった。新しいカメラに走る風潮を指して、「あれらは芸術家じゃない」と批判していたそうだ。が、時はまさにライカが生まれ、ベルクハイルやスーパーイコンタができ、やがてコンタックスである。手間のかかる芸術写真がすたれるのは、時間の問題だった。
 写真はシャッターを押せばすむ。それが値打ち。この便利さとレアリズムには、だれもかなわなかった。これで面白いのは、福島の写真家小関庄太郎(1907-2003)である。古着などを扱う老舗の跡取り息子でありながら、家業を家族にまかせて、一生写真を続けられた幸せな人だ。(これも図録から。小関庄太郎「1人歩む」1929年、ゼラチンシルバーに雑巾がけ)

 17歳でベス単を手にしたのが初めで、昭和の初期、「雑巾がけ」を主とした作品が高く評価された。今回の写真展でもひときわ異彩を放っていて、「これ写真ですか?」の代表だった。
 しかし、戦後は木村伊兵衛森山大道植田正治を追って「普通の」写真を撮り続け、初期の作品が東京都写真美術館に収蔵されるようになっても、「あれらはくずのようなもの」とまったく評価せず、「写真はカメラが勝手に写してくれるもので、私の写真は芸術でも何でもありません」が口ぐせだったという。(同展の図録・堀宣雄氏の論考)
 堀氏はこれを「逆説的に芸術家としての強烈な自負」といっているが、むしろ、何をもって芸術というか、の視点がすでに移ってしまっていたと見た方がわかりやすい。晩年の小関の目には、初期の作品はもう写真ですらなかったということだろう。たしかに全く別ものである。
 田村さんの話では、いま世界的にピクトリアリズムが見直されていて、実際に手がける人もいるのだという。アメリカではアルフレッド・スティーグリッツとクラレンス・ホワイトが中心(後にスティーグリッツは袂を分かってストレートフォトに走る)だが、エドワード・ウエストンや水晶レンズのカール・ストラスなどホワイトの人脈は層が厚く幅も広い。(左は田村政実さんの「雑巾がけ」作品。下はピクトリアリズム文献とホワイトのフォトグラビア)
 しかし、これらに較べても、日本の芸術派は一種独特である。その中心技術が「雑巾がけ」だったと田村さんはいう。そこでいま、「芸術写真講座」を開いたり、「雑巾がけ」のワークショップも計画中だ。
 「時間がかからないから、みんなで楽しむにはいい。(ゴム印画と違って)雑巾がけは健康的だし、日本人のアイデアだから、日本の文化」だと。
 いまソフト画像を作るだけならば、PCでインクジェットという手もあるが、「やはり手触りが違う、手作り感がない」そうだ。逆に新技術を使えば、35ミリ判から反転現像して、インクジェットで拡大ネガ作ったりもできる。最近アグファが作り始めた乾板(6x9cm)で撮ると、シャープで強い絵が撮れる、などとまことに意欲的だ。
 ただひとつ、いい紙がないのが悩みだという。いまの印画紙は薬品がしみ込まないので、古い技術には使えない。油がしみこみゼラチンが残るような‥‥これがなかなか難物なのだそうだ。この話もまた、さっぱり飲み込めないのだが、実際にワークショップが始まったら、真っ先にでかけていこうと思っている。ネガならいくらでもあるのだから。

フィールドカメラのぬくもり



 古い写真だが、全日本クラシックカメラクラブ(AJCC)の写真展で、大いに受けた1枚だ。タイトルが「なに、また買ったの?」だった(右)。クラカメ三昧の会員たちは、だれでも奥方の目が怖い。これも、買ったばかりのナーゲル・ピュピレ(エルマー付でしたよ)に見せた女房の反応そのもの。カメラと見れば敵意を隠さない。
 この女房がたった一度だけ、「あら、かわいいカメラ!」といったことがある。実はカメラではなかった。みなさまはおわかりだろう。ソーントンシャッターにレンズがついたユニット。暗箱カメラのレンズボードにとりつけるものだ。デザインといい、塗りといい、レンズの輝きといい、イギリス暗箱黄金時代の香りがする。いいものは時代を超える。(右下)
◆幻のCamera of the Year
 ここでひらめいた。カメラ嫌いのわが女房が、「かわいい」といったのだ。なにしろドイツ・ロマンチック街道の人形屋で、山と積まれたなかから「あれがいい」といったのが、店で一番高い人形だったという女である。「こういうカメラを作ったら絶対売れる。カメラ・オブザ・イヤーになる」。
 仲間のカメラ好きに見せたらみな面白いと。なかには「作ろう」というのもいた。ところが、メーカー関係者の反応はさっぱりだった。木を細工するコストを考えてしまうのかも知れない。しかし、人間だれしも人とちょっと違うものを持ちたいものだ。とくに女性はそうだ。
 一方で、メーカーに作らせたら、およそ似て非なるものを作っちゃうだろうな、という思いもあった。想像力のない人間には、何をいってもムダーーというわけでこの計画はお蔵入りとなったのだが、あらためて見回すと、ビンテージの暗箱周辺には、なんと魅力的なデザインがあふれていることか。


 街で暗箱を広げていると、「これ何です?」とよくのぞきこんでくる。一番多いのは、大判族が自慢たらたらのディアドルフやリンホフなんかじゃない。赤蛇腹のプリモ・タイプ(左の2つと下の1台)とか塗りの美しいイギリス、風変わりなフランスのカメラである。
 いかにもカメラ、カメラしたものよりも、「これがカメラかい?」というくらいの方が、目を惹くようだ。おまけにわたしは、レンズも真鍮だったり、シャッターもコパルなんかじゃなくて、昔そのままのソーントンやLUC、エアーシャッターだから、「何だろう?」となるらしい。
 いまどき、蛇腹カメラというだけでも珍しいのに、それが赤蛇腹だったりすると、だれもがびっくりする。フランスやドイツになるとさらにカラフルで、縁取りの色を変えたりしてなかなかおしゃれだ。これを真似したのが旧ソ連だが、素材が悪いのが玉にキズ。カメラデザインは、細部まで入念でないといけない。
 わたしは常々、箱は何だって一緒といっている。コレクションは別として、実際に写真を撮るのなら、箱は光が漏れなければそれでいい。しかし、これはあくまで理屈であって、いじっていて楽しいものと、そうでないものとがある。好みというヤツは測る物差しがない、やっかいなものである。
◆フィールド志向が発明の母
 いじくり回していていちばん面白いのは、やはりイギリスのフィールドカメラだろう。イギリス人というのは、ダゲレオタイプの時代からフィールド志向が強かったようで、カメラがまだ木の箱の組み合わせだった頃から、蝶番で折り畳んだりしている。
 蛇腹ができるともうイギリスの独壇場で、まずパトリック・ミーガーがテイルボードを考案する。箱の後ろを開いて、その上にピントグラスと後ボードを引き出す方式だ(動画 ☞ )。次に前を開いて、レンズボードを引き出すようにしたのが、ジョージ・ヘアが1882年に考案したドロップベースボードである。
 このページの右上にあるイラスト(ランカスター・インスタントグラフ)もそれだ。このタイプは小型なら手持ちでも撮影できるので、ハンド・アンド・スタンドとも呼ばれて、サンダーソンやウナが代表だ。造りとしては、アメリカのプリモや後のスピグラ、ドイツのリンホフと同じである。
 こうした流れの中で、マンチェスターの時計職人サミュエル・D・マッケランが1884年に考案したカメラは、デザイン上の革命だった。写真好きだったマッケランが、自分用に作った軽くて持ち歩きのいいカメラである。
 ドロップ・ベースボードはまだ箱である。が、マッケランはこの箱をほとんど木枠だけにして、ボードを開くといきなり蛇腹が立ち上がるようにしたのだった。ベースボードは真ん中をくりぬいて、レンズをつけたまま折り畳める。くりぬきは三脚取り付けアナとなり、カメラが水平に回転する優れものだ。
 折りたたみのカギは、支えの金属製ストラット(支柱)の真ん中にスリットを切ったことである。これによって、レンズボードもバックも自由に角度を調整でき、したがってアオリもできる。そして何よりも軽い。マッケランはこれを、イギリス写真協会(BPS)の展示会に出展して金賞をとった。以来、イギリスのフィールドカメラの代表になる。(動画 ☞

 ところがアメリカでは、なぜかこのタイプは根付かなかった。三脚の仕組みの違いかもしれない。イギリスは、カロタイプのころから、3本バラバラの三脚をカメラに取り付けていた。いわば三脚はカメラの一部で、マッケランもこれにならった。だが、アメリカではいまと同じで、三脚は独立していて、カメラはその上に乗せるものだった。
◆実用品と嗜好品
 実際に使ってみると、イギリス式は見た目と違って安定もよく、雲台なしにいろいろ調整できるのだが、三本足は持ち歩きがややわずらわしい。また、マッケランの造りは華奢で軽く、金具の噛み合わせもデリケートだ。丁寧な工作が必要なので、アメリカ人の好みに合わなかったのかも知れない。
 これをいちばん忠実に継承したのは、日本だ。写真館の標準がなぜかイギリスカメラだったために、乾板もフィルムもイギリスサイズになる。これにあわせてカメラも作る。日本人は器用だから、デリケートな金具の工作や塗りにまでこだわった。さすがに木だけは、マホガニーというわけにはいかなかったのだが‥‥。
 何でもそうだが、実用品というのは機能オンリーでつまらないものである。カメラでいえば、撮りやすくて失敗がない。アメリカ・カメラはまさにこれで、素晴らしいのはバックだけだ。100年以上も前に考案されたスプリングバックと規格は、いまも現役だ。現代の撮り枠(フィルム・ホルダー)が、昔のどんなカメラにも使える。
 これが始まったのは、プリモ・タイプである。アメリカ・オリジナルのカメラデザインで、世界のスタンダードになったのはこれだけだ。後に近代化されてスピグラになる。シンプルで撮りやすく、頑丈なのでプレスや軍用にもってこいだったが、愛着のわくカメラではない。むしろ昔のプリモの方が、可愛くておしゃれでずっと面白い。(上はプリモ・タイプの Korona long bellows 4x5 、その上は Korona でスナップした銀座)
 奇妙なことに、アメリカの暗箱カメラを代表するディアドルフは、デザインとしては、マッケランのフィールドタイプ、つまりはイギリスカメラなのである。ただし時代はずっとあとで、イギリス式三本足は採用していない。どこが違うのかと較べてみると、お国ぶりの違いが見えてなかなか面白い。
 そもそもレーベン・ディアドルフが暗箱カメラを作り始めたのは、偶然みたいなものだった。長いことシカゴでカメラやレンズの修理をしていたのだが、自分でカメラを作る気はなかった。ところが、コダックなどが大判カメラの生産を中止したために、困ったユーザーから泣きつかれたのだった。もう還暦に近かったが、腕はよかったし、アイデアにも優れていた。
◆数奇な巡り合わせ
 レーベンは若い頃、カメラをデザインしてロチェスター社に売ったことがあった。それがプリモだったと、レーベンの長男マールが語っている。プリモの始まりは19世紀の終わりである。ボディーは黒革張り、内側は美しいニス塗りで蛇腹はボルドーや赤、レンズや金具も磨き上げたおしゃれカメラだ。ロチェスターの各メーカーが競い合って、のちにコダック1920年代まで作り続けたベストセラーだ。
 もしレーベンが自分で作っていたら?と思いたくなるが、ロチェスターのメーカーはすべてコダックに飲み込まれているのは歴史の事実。もし手を出していたら、後のディアドルフはなかっただろう。万事塞翁が馬というところかもしれない。

 かくてレーベンが最初に作ったディアドルフはプリモ・タイプの8x10だった。30年も前に自分がデザインしたカメラを初めて作ったわけだ。構造からいって、相当無骨なものだったと思われるが、すべて予約で売れていたというから、ユーザーの方が切羽詰まっていたらしい。そうして200台ほど作ったあと、なぜかイギリスタイプになり、ディアドルフ神話が始まるのである。(左は、5x7で撮ったイヌのお誕生会=葉山海岸。上は91年の Deardorff のカタログ)
 ではディアドルフは、本家イギリスとどこが違うのか。まず、ユーザーのニーズが違った。
 イギリス式は軽くて持ち歩きのいいのが第1だから、造りは概して華奢だ。撮り枠が木製なのでちょっとかさばる。そこでサイズもハーフかクオーターが主になる。レンズは冒頭にお見せしたソーントンシャッターのユニットが標準で、レンズ交換も簡単でかさばらない。基本はアマチュア用なのである。
 対してディアドルフを必要としたのはプロたちだった。1920年代のアメリカは、ピクトリアリズムからアンセル・アダムスらのストレート・フォトへの切り替わりの時期で、ニーズは多様で、レンズ選択の幅が広かった。高画質のためには判は大きくなくてはいけない。大きくて重いレンズも使いたい。スタジオカメラの機能も必要とした。
 当然、カメラは大きく重く頑丈になる。木組みもがっちりしているが、それを支える金具の強度がけた違いだ。多少ぶつけても狂いがこないから、どんなに乱暴に使い込んだものでも、折り畳んだときにパチンと金具の音がして、定位置におさまる。ユーザーには、頼りがいのある安心の音である。
◆レンズボードの意味
 アメリカ人の過超なニーズをまとめあげたレーベンの才覚はたいしたものだ。なにしろその後3人の息子が引き継いでざっと70年間、フロントスイングが加わった以外、基本デザインの変更はない。最初から完璧だったのである。
 機能の上でのいちばんの違いは、レンズボードだ。ディアドルフはアメリカ大判カメラの標準である6インチ角(8x10)、4.5インチ角(5x7)である。むろん従来のレンズが使えるようにというユーザーのニーズだろうが、イギリスカメラよりはるかに大きくなった。
 厳密にいうと、概念が違うのである。イギリスのボードはレンズをシフトさせる板であって、レンズのとっかえひっかえはソーントンシャッターの前板で行うものだった(動画 ☞ )。従ってレンズは小さなものしかつけられない。アメリカでこのスタイルが根付かなかったいちばんの理由かもしれない。
 レンズボードの大きさは、レンズ選択の幅を決める。いかに美しく優雅なカメラでも、ボードが小さいと使えるレンズが限られてしまう。イギリスやフランスの暗箱カメラが早く廃れた一因も、これだったのではないかとわたしは思っている。レンズ遊びに無頓着だった報いではないかと。
 ディアドルフの登場で、趣味のカメラだったイギリス・フィールドは、万能のプロカメラに生まれ変わる。乱暴に持ち歩いても平気な実用カメラだ。アンセル・アダムスらがそれを実証した。そう、カメラとは本来そういうものでなくてはいけない。
 だが残念なことに、ディアドルフの周辺に、魅惑的なデザインは見当たらない。バックも規格、ボードも規格、レンズもシャッターもあらかた装着可能‥‥万能の実用カメラには、危うさというものがない。規格の国アメリカが作ると、木製カメラですらこうなってしまうのだ。
 しかしなぜか、ディアドルフはコレクションの対象である。実用カメラなんかコレクションしてどうする、といいたくなるが、アメリカ人にはいまもって大いなる誇りらしい。ジナーやリンホフに抗して、シコシコと手作りを続けたけなげなアメリカ、というイメージであろう。
 元がイギリススタイルだなんて、もうだれも覚えていない。だから、そのイギリスカメラの持つ、えもいわれぬ危うさ、いい加減、工芸的なこだわり、巧まざるユーモア、温もり、美しさにも気づかないのである。必要なのは、ほんのちょっとのデリカシーなのだが‥‥。(上は、ギリス・フィールドの代表、ガンドルフィ。ひと目見ただけで違いがわかる。田中長徳さん所蔵)
 暗箱デザインに思いを巡らすのは、楽しい。いつも必ずなにがしかの発見がある。

出よ! デジタルのダゲール

 きょうは大判の未来を語ろうか。いまやカメラはデジタル全盛で、究極の便利・簡単が達成されて、銀塩仲間も大方デジタルにいってしまった。むろんデジカメは記録装置としてはたいしたもので、このページでも大いに使っている。というより、デジタルでないとページそのものが成り立たない。
 フィルムで撮ってはいるが、掲載される画像はスキャナーで読み取ったものだ。カラー写真はみなデジカメだし、題字わきのイラストにしても、お絵描きソフトとマウスで描いたデジタル絵画である。「孤高の大判族」なんて気取ってみても、しょせんはフィルムに写すまででしかない。いや、実はそこまでが何より面白いのだが‥‥。
◆そっけないプロフェッショナル
 そのフィルムの雲行きが怪しくなっている。カットフィルムの現像が不自由になった、イギリスサイズが消滅した、ブローニーや35ミリ判もどんどん種類が減っている、と憂鬱なニュースが続く。となれば、どうしても次を考えざるを得ない。

 「CCDやCMOSのでっかいのは作れないの?」と聞くと、その道のプロはみな笑う。35ミリ判のフルサイズのカメラですらあの値段である。8x10(インチ、以下同じ)はその60倍以上もあるのだから、何百万円という値段になってしまう。
 「いや、カラーなんか要らない。単層のモノクロでいい」といってもダメ。作る手間は同じだと。「ならば、不良品でもいい。多少アナがあっても全体がでかいんだから」といっても、今度は技術者の矜持で、ウンとはいわない。この石頭め!
 すると昨年9月、キヤノンがニューヨークのエクスポで妙なものを発表した。プレスレリーズを見ると、約8インチ角(202×205mm)という大型の撮像素子CMOSである(写真は市川泰徳氏のブログ「写真にこだわる」から)。左が大型の、その右にあるのが35mm判フルサイズのCMOS、面積で約40倍。300mm径ウエハーで作っている撮像素子を、普通は40枚とか80枚とかに切るところを、スパッと1枚に切り出したものだという。これはすごい。
 出力回路やゴミの処理などたいした技術の結晶だろうが、とにかく目の前にあるのだ。ところがキヤノンの説明は、「月夜の半分程度の明るさ0.3Luxでも撮影が可能」とか「星空や夜間の動物の動画撮影もできる」と話がそれてしまう。おいおい、そんなことはどうでもいい。これをバイテンの撮り枠に組み込んでくれぇ。
 NYのエキスポ会場の様子がmixiに載っていたので、さっそく問い合わせてみた。すると「画素数は2Mくらい(つまりフルHD)で、超高感度、超広ダイナミックレンジ.動画撮影可能.月明かりから普通の照明まで絞りを変えずに撮影可。 撮影はバイテン・カメラでした」。もう撮影してるのなら、できてるわけだ。でも、「売り物に仕上げる予定はないそうです」
 「エーッ、そのまま売れるのに」。大判ユーザーは全員が買うだろう。もうやめた連中もデジタルになれば、また撮り始める。ユニット式にすれば、イギリスカメラでも、ダゲレオタイプでも撮れる。ただし、安くないといけない。こう書き込んだら、「その市場規模では安くするのは不可能でありましょう」だと。クー、何たること。
◆道楽で作るしかない
 だから常々「技術者が道楽で作るしかないだろう」といっていたのだ。事実、フジの人が「道楽でなくメーカーがつくった?」と驚いていた。売る気がない、使うつもりのないものを作って、特許で防御されたりしたら最悪だ。作っちゃいけないところが作っちゃったことになる。技術的にはもうできているというのに、これじゃますます、死ぬまでに間に合わないぞ。
 暮れに近くなって、友人のSさんからメールが来た。「大判のデジタルバック・プロジェクトが進行中です」という。彼は化学系の技術者なのだが、クラシックの大判写真を撮り続けている。最近はハイパーゴンに凝って、8x10カメラを改造したりという病膏肓の士だ。
 早くからフィルムの次を考えて、半導体技術の動向を見ていた。しかし、イメージセンサーの専門家に聞いても、前述のような状況で見通しはきわめて悲観的。そこで、いまある技術を流用できないか、とこの数ヶ月、さまざまに思いを巡らしていいたというのだった。
 このとき伝えてきたのは「分割方式」である。小さなCCDで撮ったものを継ぎ合わせるというのだ。ポイントは、使える安価なデジタルバック(つまりデジカメ)があるかどうか。撮った画像のつなぎ合わせが容易に出来るかどうか。むろんデジタルカメラでの連続撮影をどうメカ的に操作するかという問題もある。
 彼は、ソニーのミラーレス一眼レフ(NEX)に目をつけた。フランジバックが短いからけられない、レンズなしでも撮影可能ーーこれをシャッター付のイメージセンサーとして使うわけだ。「もう少し安くなってからと思いましたが、我慢出来ずに購入してしまいました」
 2つ目の画像つなぎ合わせは、フォトショップに機能がついていた。試してみると面白いようにつなぎ合わせてくれる。そこでわざわざ11x14 カメラをオークションで購入。連続撮影の仕組みを工夫して撮った。「一発目の結果です」と送ってきたのが上の写真である。(操作については動画参照)☞
 イメージサークルの大きなレンズで、NEX3をレンズなしで少しづつダブらせて連射。横11枚X縦10枚計110枚の画像をつなぎ合わせたものだ。新しい画像をつかまえようという現代のダゲールの試みである。ただし、これで4x5くらいだという。理由は、個々の画像があまりに小さいために、青空のようなフラットなものが続くと、つなぎ合わせソフトが判別できずに、エラーを連発してしまうとか。(フラット部分のつなぎ、黒い四角がエラー)
 NEX3の方は、「ケラれを少しでもなくそうとマウントを外したら、リード基板が切れちゃって、二度とオートができないフルマニュアルのデジカメになりました。トホホ……」。おやまあ、かわいそうに。パイオニアに悲劇はつきものである。
◆次なるはスキャナカメラ
 むろん動くものは撮れないが、風景や静物写真ならそのままでいい。大判写真はもともと動きのあるものは少ない。どう活用するかは、撮影者の才覚次第である。なによりも、メーカーが絶対に作らないものを道楽で乗り越えようとする心意気が嬉しいではないか。
 そうこうするうちに、年が明けて別の友人がスキャナカメラの情報を送ってきた。フラットベッドのスキャナを暗箱カメラのバックにとりつけようというアイデアである。すべてHPの情報だったが、驚いたことに、これを試みている人はけっこういた。
 しかも、自分でソフトを作っちゃったり、メカも精密工作したりというとんでもないレベル。ただ、画面は大方中判どまりで、サイズよりは高画質志向というのが共通していた。その友人は大判志向なので、「ボクの考えとは違いますが」。また、彼らのレベルが高すぎて、手に負えない部分があるともいう。
 参考までにと、これをSさんに伝えたところ、なんと「偶然ですが、ここ数週間スキャナを利用した大判写真の可能性に夢中です」というではないか。「分割撮り」は技術的なメドは立ったのだが、ソフトの問題やらなにやらあって、いったんお休み。他の方法をと、スキャナに目をつけたのだという。

 イメージとしては、フイルムホルダーの代わりにスキャナを差し込むわけだ。情報に出てきたうちの1人とはすでに連絡をとって、技術的な話もしていた。が、Sさんは「小型高精細志向で、恐ろしくエレクトロニクスやソフトウェアに強い人だった。私には全くフォローできずこの方法は断念しました」というのだった。
 しかし、Sさんは別の方法を見つけていた。カナダのブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)の学者による論文だ。pdfで読めるのだが、英語をしこしこ読まなくても、1枚の写真が雄弁に語っていた。8x10カメラのバックにスキャナーらしきものがついている(写真)。「まさに私の最終解。たぶんあなたのイメージでもあると思います」とSさん。
 論文は、市販の安いスキャナの簡単な改造で、8x10全域を5億画素レベルで撮ることができるという内容だ。画質はEOS並。スキャナはUSB電源供給なので、ノートPCを使えば屋外でも撮影できる。カメラ前面のダイヤルはカラー撮影用のフィルターで、色を変えて3回スキャンして合成するのだそうだ。なるほど頭いい。(文末の参考文献参照)
◆スキャナ奮戦記

 この学者は、学術目的で文化財や画像、資料をなんとか安くデジタル化できないかと、取り組んだのだった。つまり被写体は動かないから、スキャナでいいというわけだ。使っているスキャナはキャノン製の薄型の普及機だが、安いスキャナでよく発生するキズやムラの類いを補正するソフトウェアがくせ者で、これを自分で作ったらしい。
 スキャナの仕組みは、可動式の読み取りバーの左右からLEDの光が出て、対象物に当てた光を帯状のレンズで集めて受光素子が受ける。しかし、スキャナカメラは大判レンズからの光を直接受けるのだから、LEDもレンズも要らない。これらをはずして、バーの底にある受光素子だけにすればいい。あとは、カメラのピントグラスの位置に合うようにセットして、スイッチを押すだけ。なるほど理屈はわかった。
 Sさんがこの方式で撮影した画像が下の写真だ。まだ試行段階だからいろいろ問題はあるが、立派な絵である。何やら、初めてダゲールが画像をつかまえたときのような、どきどきするものを感ずるではないか。そこで現物をみせてもらうことにした。ついでに「分割方式」の話も聞く。どちらもめっぽう面白い。ここでは省くが、試行錯誤の過程などは抱腹絶倒だった。
 持ってきたのは、ぺちゃんこのA4判キヤノン・スキャナだった。ネットオークションで1000円だったとか。サイドのプラスチックを簡単にはずし(このはずし方もネットに出ているそうだ)、ガラスを取り除いて、可動の読み取りバーをむき出しにして説明してくれた。
 「これがレンズです」と見せてくれたのは、どうみてもただのプラスチックテープだが、「ちゃんとアナが開いてるんですよ」「へえー」。スキャナにも大変な技術が入ってるんだ。もうLEDはつぶしてあって、どちらもスキャナカメラには要らないもの。バーの底に張り付いている受光素子だけでいいのだと。(右上の写真。金色に光っているのが受光素子)
 スキャナの背面にジナーボードがとりつけてあって、これをジナーにセットして暗箱カメラに後ろからあてがう。あとは、USBで接続した(電源もとれる)パソコンの操作で読み取ればいい。「ピント面は?」「一度撮ってずれてたら修正すればいいんです」。違えねぇ。露出もまたしかり。デジタルはすばらしい。
 (ジナーにセットしたスキャナ。操作については動画参照)☞
コロンブスの四角い卵
 実は、この先にもうひとつ核心があった。レンズをはずしてしまった受光素子は、素材のばらつきがストレートに出てしまう。下の写真でも、よく見るとスジが入っているのがわかる。これをどう補正するか、前述の学術論文でソフトの問題といっていたのが、これだった。件の学者は自作したらしいが、Sさんは論文をヒントに、ネットをさがしまわってついに見つけ出していた。

 これがなんと日本人で、ソフトをフリーで公開していたというのだ。元のアイデアは、image inpaintingという外国のものらしい。要するに、写真などの表面にあるキズやゴミ、書き込みなどを消してしまうもので、最新のphotoshopにも同様のものはある。こう書くとひどく簡単なようだが、つまりはコロンブスの卵である。技術もアイデアもすでにあるもの。それらを、ある意図をもって並べ直した。今回の卵は四角だったというわけだ。
 デジタルではもうひとつ、赤外線(IR)の問題がある。CCDなどの表面がピカピカ光っているのがIRカットフィルターで、これをつけないとIRが写り込んでおかしな絵になってしまう。それをレンズの前に装着するのだそうだ。へえー、昔のフィルターホルダーも生き返るということか。面白いもんだ。
 以上が、スキャナカメラの基本コンセプトのすべてである。既製品では小さくてもA4判だが、もし8x10サイズで、LEDもレンズも要らない、シンプルなものなら、さまざまな知識や技術をもった「道楽者」が集まれば、作れるだろう。デジタルのダゲールになれるかもしれないではないか。なんだか灯りがみえてきたような。
 どんな新しい技術でも、使いこなしてこそ。開発者が思いもしなかった活用法をみつけるのは、使う側の特権である。完成品を待っているだけでは、明日は開けない。肝心なのは、1人の知恵より大勢の知恵だ。ネットはその道を開いてくれる。
 Sさんはいう。「ややショックなのは、コロンビア大の論文が2004年だったこと。日本ではほとんど話題になっていない。コアテクノロジーは完全に日本頼りなのに、着想とそれを一般化しようとする意欲が凄い。遊び心は欧米人のほうが優れているのでしょうか?」
                  ◇
 スキャナカメラの試みはいくつもある。以下に参考文献をあげておく。
◆Design of an Inexpensive Very High Resolution Scan Camera System
 Google 検索でpdfをダウンロードできる。
http://www.stockholmviews.com/diyphotogear/scannercamera.html
http://golembewski.awardspace.com/cameras/scanner/index.html
◆Image Inpainting
http://wwwmath.uni-muenster.de/u/wachi/PublicPapers/Bertalmio-2000-ImageInpainting.pdf
◆ブログ「てきとうな日々」テクスチャ合成 (Texture Synthesis)
http://blogs.yahoo.co.jp/cat_falcon/folder/932243.html
◆ 日本における試みのリンク
http://wiki.livedoor.jp/scanner_camera/d/%a5%ea%a5%f3%a5%af

奇跡!蘇った乾板

 いつも刺激的な話を持ち込んでくる城靖治さんが、「ポストカードの乾板を手に入れました」という。ポストカードは、その名の通りハガキに使ったもので、イギリスから始まってアメリカでも大陸でも、カメラはときどき見かける。しかし、フィルムがないのでどうにもならない代物だった。

 イギリスのフィルム・乾板のサイズは、フルサイズの6-1/2 x 8-1/2(インチ、以下同じ)を基準に、キャビネ(1/2)、手札(1/4)とある。ポストカードは、最小の手札の長辺をさらに1インチ余長くした、ともかく幻のサイズである。
 みつかる撮り枠(ホルダー)がみな乾板用なので、フィルム時代にはもう終わっていたのかもしれない。乾板は戦後の60年代まで使われたが、フィルムとの併用期間は50年以上もある。カメラが乾板用しかないとなると、みつかった乾板も戦前のさらに先は間違いない。期限切れ70年以上? おいおい。
◆現れ出たる幻のサイズ
 城さんは、珍しいプリモNo.8というポストカード・カメラをもっている。ガラス板に工夫をして、フジのキャビネ半裁(手札より1cm長い)をセットしてよく撮っていたのだが、本来のポストカードはもっと横長。パノラマに近く、風景写真にはいいかもしれない。
 実寸は長辺がほぼハガキに近いが、縦横比はハガキよりずっと細長い。密着で焼くとかなりの余白が出るが、そこに通信文でも書いて切手を貼って送ったものであろう。城さんによると、このサイズはアマチュア用だったそうで、そういえば、カメラの造りもあまり高級ではない。旅行のお伴カメラだったのだろう。たしかに、絵はがきを商売にするプロなら、4x5判の方がはるかにハガキの実寸に近い。(上はポストカードだが、左右をトリミングしてある。右がプリモN0.8)
 そうこうするうちに、城さんがカメラをもってきて、実際に撮ってみせてくれた。乾板の箱には「CENTRAL DRY PLATES」、会社はSt Louisとある。だが感度がどこにも書いてない。箱の底に「D.C.7199」という数字があるが、使用期限か? もしそうなら1899年7月1日? まさか。それじゃ明治時代だぜ。
 好天の午後、環8に近い公園で店を広げた。さあ、露出をどうするか。以前、フジの期限切れ40年の乾板を撮ったときは、感度をASA50、年月で半分の25に落ちていると踏んで、さらに余分に露出をかけてうまいこといった。ASA10くらいで撮ったことになるから、計算上はちょうど徳川慶喜が撮っていたころと同じ感度になる。
 年月が経てば当然感度は落ちる。しかし、何年経っているのかもわからないのだから、まあまるっきりの当てずっぽうに近い。結局、私の方式よりさらに露出をかけて、ほどほどの結果が得られた。
 実は城さんは、5x8の乾板も手に入れていた。8x10のちょうど半裁だが、横長すぎるので、1インチ短くした5x7が標準になって、5x8は早くに廃れた。5x8は私も1台もっているがアンソニーで、城さんのカメラはスコビルだ。長年のライバルだったが、どちらも世紀の変わり目のころにコダックにたたきつぶされた。その負けた2つが一緒になったのがアンスコである。

◆大正時代が写るとは‥‥
 こうした時代背景から、乾板は「5x8は大正時代、ポストカードは戦前でしょう」と城さんはいう。いずれも使い手がないから、売れ残っていたのだろうと。そんなもの買う方も買う方だが、とっておいたアメリカ人も相当なものだ。が、これまで使えなかったカメラが蘇るのだから、遊びとしては面白い。
 5x8はすでに箱根で試写をして、厚木のかとう写真館の加藤芳明さんが現像して、まずまずの結果を出していた(写真左)。さらに横浜の元町公園の一郭にある洋館「エリスマン邸」で開かれていた、田村写真(六本木)のプラチナプリント写真展の会場で撮るというので、こちらも暗箱かついで出かけていった。
 元町も久しぶりだったが、実は裏の外人墓地や元町公園へ登ったことはなかった。坂道をえっちらおっちら登っていたら、登り切ったあたりから急に人が多くなった。聞けばいまはエレベーターがあるんだそうだ。そういうことは、先にいってもらわないと困る。


 エリスマン邸は、元町公園へ切れ落ちる斜面の肩に建っていて、表から入ると写真展会場は地下になるのだが、そのまま気持ちのいいテラスが開けて、公園の濃い緑が借景になっている。そのテラスにイスをずらりと並べて撮ったのが下の2枚である。(右のカメラはScovill 5x8)
 上がポストカード、下が5x8だが、縦横比はほとんど同じ。横にずらりと並べて撮るには確かにいい。結果を見ると、レンズの違いは別として(ポストカードはRR、5x8は単玉レンズ)、乳剤の状態はポストカードの方がはるかにいい。まあ、年月の違いを表しているのであろう。しかし、大正時代?の乾板が立派に画像を結ぶのには、完全に脱帽だ。しかも、現代の現像液でちゃんといける。先達のワザの確かさは感動ものである。
 エリスマン邸から山を下りて、中華街で腹ごしらえ。さらに山下公園氷川丸の前で5x8で1枚撮った。日曜日だったので、暗箱を物珍しげにのぞきこんだり、携帯で撮ったりもあったが、声をかけてくる人はいなかった。日本人は概して好奇心が薄い。120年前のカメラだといったらビックリしたかもしれないが‥‥。
◆顔が黒く写るわけは?
 乾板はぴったりと重ね合わせてパックしてあるが、空気に触れた度合いの違いから、パッケージの外側と内側では、乳剤の状態に差が出るのは当然で、中にはかぶっているものもある。つまりは1枚1枚状態が異なるから、現像してみないと結果はわからない。また、周辺部はさすがに乳剤が死んでいて全く感光していない。周囲が黒いのはそのためである。
 むろんまだ、オルソクロマチックだ。全ての色に感光するパンクロマチックと違って、感光するのは紫、青から黄色までで、赤い色はダメ。それで日陰では顔の色や赤い洋服などはちょっと黒ずんでしまう(トップの2枚の写りの違いにご注目を。オルソの乾板では、ジャケットの袖の赤が感光していない)。オリジナルのままだとコントラストも弱い。
 いったん密着で入念に焼いたうえで、それをスキャナーで読み込んで、photoshopで焼き込んだりコントラストを整えてようやくである。しかし昔の人は、オルソクロマチックに青いフィルターをかけたりしてちゃんと撮っていた。乾板の状態がもっといいとはいえ、そのワザにはただただ感心するばかりである。
 それにしても、なんでこんな細長いサイズができたのか。5x8はただ8x10を半分にしただけだが、アメリカ人はその横長を生かして、広い風景や大勢が横に並ぶ記念写真、あるいはステレオ写真に大いに使った。彼らは何によらず貪欲で現実的なのだ。
 しかし、それとほとんど同じ縦横比のポストカードが、なぜイギリスで必要だったのだろう。幅は手札と同じ(3-1/4)だから、そこから派生したのは間違いなかろう。そしてカメラを作って輸出して、輸入したアメリカでは、こうして乾板まで作っている。5x8の小型版として珍重されたのだろうか。
 いちど撮ってみればわかるが、この長さはかなり手に余る。広々と水平線が広がる風景か、あるいはタテ位置で細長いものでも撮るならまだしも、普通の撮影には長過ぎるのである。われわれが普段使う判でいちばん細長いのはライカ判だが、その感覚で記念写真を撮っても、左右が大きく余ってしまう。
 プリモNo.8をみると、タテ位置でレンズがかなりライズするようにできているから、エンパイヤステート・カメラのような使い方をしたのかもしれない。しかし、高層ビルを撮るのは、世紀の変わり目ごろのアメリカだけの、特種な需要である。それよりはるか以前に、イギリスサイズの変形カメラが作られた理由がわからない。昔はだれでも知っていたことだろうに、いまでは文献すらない。時代とはそうしたものであろう。(上は5x8で氷川丸。撮影:西山浩明さん。下はポストカードで黒川義弘さん。タテ位置だとこんなに長い。撮影:城靖治さん)
◆乾板の裏表を見分ける法
 かくて蘇った乾板の画像をmixifacebookに載せたところ、みんな驚いたらしい。なにしろ、巧まずして古色蒼然たる写真ができあがっているのだから、黙っていれば本当の古写真と区別がつかない。日頃モノクロのトーンにこだわっている人ほど、衝撃があったようだった。乾板からいきなり焼いたのでは、ちょっと無理なのだが‥‥。
 いま、こうした調子に目を向ける人が増えているのかどうか。ネットで画像を送ると、レトロな調子に仕上げてくれるサービスもあるらしい。友人の1人は、「そんなものを銀河の果てまで追いやるパワーがあります」といっていた。そうかもしれない。やっぱり本物だからね。そしてその友人はまた「うちにも乾板があるぞ」といっていた。
 城さんによると、ポストカードの乾板は、「Special」と「Special XX」の2種類があって。「XX」の方が感度が2倍。5x8は低い方で同じくらい。どれもオルソだから、赤いセーフティーライトの下で、具合を見ながら現像できるそうだ。ただ、フィルムよりは、定着液のヘタリが早いので、停止液を使った方がいいという。
 また、今回何枚かは裏返しにセットしてしまったという。乾板の裏表は実は判別が難しい。昔の人は、「なめてみればわかる」というのだが、乾板のガラスは切りっぱなしだから、暗室では気をつけないと危ない。オルソならばむしろ、セーフティーライトで確かめた方が確実のようである。


 また、乾板は銀塩の量が多いので裏にまでまわりこむことがあり、それをはがすための薬品「INGENTO REDUCING PASTE」というものまであった(写真右)。けっこうな手間をかけていたわけである。
 火付け役になった城さんたちはいま、眠っている乾板を掘り起こせないかと企んでいるらしい。外国から買った古い暗箱カメラに、未開封の乾板がついてくることはよくある。包みを開いてしまえばそれっきりだが、何気なく保管している人もいるはず。それらを掘っくり返して、あわよくば乾板写真の展覧会でもやろうかというのである。
 エリスマン邸でも、城さんと加藤さんが持ち込んだプリントが、大判族の注目の的だった(写真右)。田村写真のグループにもきっと乾板を持っている人がいるに違いない。何しろ好きな人たちである。こういう予感は案外当たるものだ。
◆乾板野郎集まれ
 ただ、乾板で遊ぶには、自分で現像できないといけない。そんなものを引き受けてくれるラボなんかないんだから。そして、さらに密着で焼ければいちばんいい。これまでのところ、乾板自体が完全というわけにはいかないから、焼きでかなり補ってやらないといけない。また、ここでお見せしているのは、さらにphotoshopコントラストをあげたり、焼き込んだりしてある。
 ところが久しぶりに加藤さんに電話してみたら、なんと別にみつけた乾板の状態が、けっこういいという。ひとつがイルフォードの手札判、もうひとつが旧ソ連製の9x12センチ判で、ともによく写るそうだ。イルフォードはさもありなんだが、ソ連製なんて初めて聞いた。
 多分ヨーロッパで見つけたんだろうが、そういえば、ソ連製の暗箱カメラがよくeBayに出てきたのは、5、6年前だったか。けっこう真新しいものもあったから、案外最近まで乾板があったのかもしれない。あの国はいまだによくわからないところがある。
 加藤さんはほかにも、アメリカで5x7をみつけたのだが、ネット・オークションの手続きが止まったままで、まだ入手できないのだと。つまり、その気で探せば、乾板はまだゴロゴロしているということかな。うーん、こうなるとまた、話は違ってくる。
 少し暖かくなったら、盛大に乾板パーティーでもやってみるか。さてどこで何を撮ったらいいか。

気を写す

 銀座に今もある有賀写真館の創業者、有賀乕五郎(とらごろう)の「気を写す」という話がある。写真館を訪れたところ、有賀が「今日はお顔の色がすぐれないようですから、差し支えなければ、日をあらためた方が‥‥」といった。そこで、別の日に顔を出したら、「あ、今日のお顔はよろしい」と撮影してくれた。
 聞けば、「気」というものがあって、有賀はその「気」を写しているのだといったそうだ。竹田正一郎さんが「祖父から聞いた話です」という。
 確かに人間だれしも、日によっていいとき、悪いときがある。理由はなんであれ、やはり顔に出るのだろう。有賀はそれを見極めて撮っていたらしい。たいしたものである。その有賀の作品が、東京都写真美術館の「ポートレート」展にあった。「本郷夫人」だったか、子どもを抱いた母親の実にいい感じのポートレートだった。それにしても、「調子のいいときにおいでなさい」とは、何と優雅なことか。
◆もし「気」がなかったら?
 似たような話は、ナダールも書いている。ナダールは技術的にきわめて不自由な湿板写真だった。光線が弱い夕方に来た客に「もう、撮れない」といったら、「それでも撮れ」ともめたというのだ。こちらも、いい結果を出したいという写真師の矜持だったろう。
 湿板写真こそは、撮られる側が生半可だと、絶対にいい結果は出なかったはず。なにしろ何秒という時間じっとしている必要があった。客は常に「気」にあふれて乗り込んで来たはずだが、暗いと写らないのは道理だ。
 同じようなカメラ、レンズは使っていても、いまは高感度フィルムだから、明るさの方はなんとかなる。しかし、写真があまりに当たり前のものになっている現代人は、ともすれば「気」というやつが抜ける。「はい、並んで」といわれて、とりとめもなく集まったら、大方抜け殻みたいな案配だ。カメラをキッとにらみ返す人は数えるほどしかいない。
 どころか、なまじストロボに慣れているからか、多少動いても大丈夫だなどと思っている人がいる。わずか5分の1秒、10分の1秒を我慢できない。現像があがって、動いているのを見たときの脱力感は、「この野郎」以外にいいようがない。
 その典型例をお見せしよう。以前「語りかける写真」でも触れた、東京湾・お台場にある青函連絡船「羊蹄丸」のジオラマで撮った1枚である。沢山ある等身大の人形に人間がまぎれこんで遊んでみた、そのうちの失敗作だ(上の写真)。
 一応電話で、三脚を立ててもいいかと確認はしてあったのだが、船の係の人はそれを知らない。三脚イコール迷惑、という例の方程式に従って、神経をとがらしていたらしい。船内は意外に暗く、用意したストロボの発光がうまくいかず、ああだこうだとやっているうちに、管理人が私の後方から止めに入って来たらしい。そこで被写体がそれに答えようとしたとき、シャッターが切れた。
 私にいわせれば、シャッターの瞬間に動くなんぞは言語道断。文句をいわれるのはカメラマンである私なのに、被写体がうろたえてどうする。動いたら万事休す、という緊張感がない。「気」がないからこうなる。ついでにいえば、いまや貴重品であるフィルムをムダにしやがって‥‥まあ実際は、そのあと被写体の人たちがしきりに謝ってくれたりしていたのだが‥‥。

◆記念写真の面白さ
 実をいうと、その以前にこのカッとは失敗だった。私が手を抜いて、立ち位置、ポーズを各人のお任せにしていた。これがモデルや俳優さんなら、自ずと居場所を定め自分を出すのだろうが、普通の人たちは、何をしていいかわからなくなったのである。ひとり笑っている豪傑がいるが‥‥偶然の面白さをねらうというのは、慣れない人たちには過ぎた注文だった。
 しかし、1人2人の「気」が、全体を引き締めるということもある。左の1枚は、カメラ仲間のモデル撮影会の折の記念写真だ。古い写真で、私もただ並べて撮るだけという時期のものだが、記念写真の面白さを初めて実感した記念すべき1枚である。
 現像があがって、普通の写真とちょっと違うことに気づいた。何が違うんだろう。中央の女性2人はモデルさんである。うちの1人が半身にかまえてキッとカメラをにらんでいる。これだけで、写真の雰囲気が大きく変わる。それともう1人、床に寝転んだのがいた。誰が見ても面白い。これでこの写真は、ただの記念写真ではなくなったのだった。
 モデルさんのポーズは、職業柄かもしれない。これだけの人数の中で、見事な自己主張だ。寝転んでいる男はプロのカメラマンだが、巧まざるユーモアを発揮した。足が画面からはみ出たところなんぞは、おそらく計算外だろうが、これがまたいい。
 いってみれば、あとの人たちはただそこにいるだけ。だが、2人の演出のお陰で、みんなが「気」を発しているような案配である。当時は「気」などというものを考えもしなかったが、「集合写真は面白い。共同作業なんだ」と奥深さを感じた、これが最初の1枚だった。
 こうした結果を出すのは、実は容易ではない。みんながおとなしく並んでいれば、ただの記念写真だし、あちこちでパフォーマンスを始めると収拾がつかず、プリクラ写真になってしまう。といって、あまりにああだこうだとポーズを決めるのにも抵抗がある。被写体との間合い(知り合いかどうか)もある。そのほどほどが、実に微妙なのだ。
 しかし、あまりにも失敗や記念写真が続くと、アーヴィング・ペンにでもなったつもりで、ビシッと構図を決めて撮ってみたくもなる。ところが被写体はいつものお仲間だから、なかなかうまくいかない。こちらの意図をしっかりと伝えて、それに応える演技力も必要になる。ペンになりきらないと、役者も動いてはくれない。つまり試されるのは、こちら側の「気」というわけである。(ペンの「ペルーの子ども」。たかが子どもから引き出した「気」と、ペン自身の「気」に圧倒される)
◆1対1の気分がカギ


 よくしたもので、はじめから「気」を持っている人というのはいる。こちらにしてみれば「撮りやすい」人たち。撮った数は多くはないが、外国人はなぜかみなそうだ。いさぎよいというのか、シャッターの瞬間に、自然に心穏やかに自分を出してみせる。結果は常に良好だ。(左・フランス人のギヨーム)
 日本人は多人数になると、とかく個が埋没してしまうことが多いのだが、外国人は人数が多くても変わらない。おそらく、カメラと1対1という気持ちを持ち続けるのだろう。日本人でも、明治のころはそうだった。大勢いてもみな自分を出している。並び方や足の置き方など、ちょっとづつ人と変えてみたり‥‥。
 しかし、それから100年以上が経って、日本人は子どもの頃からあまりにも沢山の集合写真を撮られ過ぎたのか、記念写真といいうとさっさとお行儀よく並ぶし、個を埋没させる。国民性なのか、現代病なのか。それをはね返したのが「プリクラ」だが、今度はVサインばかりときたもんだ。その落差があまりに大きすぎるのである。
 これが1人ポートレートとなると、だれでもまともになるから不思議だ。とくに、大判写真に無縁だった人ほど、素直でストレート。左は駅前のガラス屋さんのご主人だ。乾板の撮り枠にフィルムをセットする必要からガラス板を切ってもらった。仕事場の雰囲気がよかったので、あらためて出かけて行って撮った1枚である。
 ただじっと座ってカメラを見つめている。それだけ。これがポートレートの原点であり、全てはここから始まる。もう少し仕事場の雰囲気を取り込みたいとなれば、横位置にするとか、上半身にするとか、小道具を持たせるとか。そこから先は、撮られる側のつもり、つまりは「気」になるのだろうが、1対1なら概ね自然体でいい。
 このガラス屋さんはその後、改装して店がなくなってしまった。ご主人とは時折、イヌの散歩の折に近くの公園で顔を合わせるが、この1枚はきっといい思い出になったと思う。
 仕事場をいっぱいにしたために、ご本尊がやや引いてしまったのが、早田カメラの早田清さんの1枚だ(右)。早田さんはいつも素直に受けてくれる。そのくせいつもちゃんと「気」があって、これまで1枚も失敗がない。これは珍しいことだ。まあ、このカットについていえば、もう少し早田さんをライトアップすべきだったが、それはこちらのドジである。
◆1枚こっきりの醍醐味
 おかしなもので、小型カメラでポートレートを撮るときには、「気」だの何だの考えもしない。「あ、ダメだな」と思えば、チャッと巻き上げてもう1枚、で済むからだろう。これが、デジタルになるともっと粗雑で、撮ったとたんにモニターで確認して、動いてさえいなければ「これでいいや」とまことに即物的だ。
 撮られる側もとうの昔にその気分だから、「あ、いま動いちゃったから、もう1枚」なんて平気でいう。フィルム代がかからないというのは恐ろしいもので、じゃかじゃか撮るのを何とも思わなくなる。おかげで1枚の値打ちは紙のように薄くなった。写真は全く別のものになったのである。

 写真の値打ちが下落したからだろう、撮影そのものも、そそくさと済まさないといけなくなった。日本はカメラの国だから、そこら中でカメラ(ケータイも含めて)で撮っているのだが、ジーッという音ひとつで終わらないといけない。はい、あっちでジーッ、こっちでジーッ‥‥。
 前述の「羊蹄丸」ではないが、1カ所で三脚立ててじっくり、というのは嫌われる。「邪魔だ」「迷惑だ」、はては「三脚は危険だ」というのまであった。江戸東京博物館でもめたことがある(わざともめることにしている)。「なぜだ」と問いつめた結果がそれだった。東京都の施設はみなそのマニュアルで動いているのだと。開いた口がふさがらないとはこのことだ。
 また、写される方もそうなっているから、「邪魔にならないように」と気配りが入る。こちらがまた、歩道だの踏切の真ん中だの、妙なところで撮ろうとするもんだから、一緒にいるカメラ仲間の中にまで、「もうちょっと脇へ寄った方が‥‥」なんて心配するのが出てくる。やかましい。私にいわせれば、そんなヤツは「裏切り者」だ。「ブルータス、お前もか」
 こんな風潮だからこそ、1枚にこだわりたい、「気」を引き出したい、勝負したいと思う。レンズにもこだわりたい、カメラも選びたい。暗箱かついで、三脚もって、店を広げて1枚撮るまでに10分15分‥‥不自由はこの上ない勲章ではないか。しかし、わかってくれる人はどんどん少なくなっている。(竹田正一郎さん。竹田さんはいつも「気」にあふれている)
◆暗箱大明神復活宣言 
 結局問われているのは、撮る側の「気」かもしれない。かつて魔法の箱だったカメラは、被写体よりはるかに偉かった。明治天皇も一目置いたという話を前に書いたが、だれもがカメラの前では、金縛りになった。暗箱大明神サマサマ。写真とはそういうものだったのである。
 そのカメラはいまや、家電製品になり下がってしまった。先日乗り換えたiPhoneのカメラは、映像記録装置としてはとてつもなく優秀なのだが、iPhoneの数ある機能のうちではむしろマイナーな部類で、マニュアルすらない。慣れ親しんだカメラとあまりにも違うので、半月以上ものあいだズーム(デジタル)であることにも気づかず、笑われてしまった。
 しかも撮れる画像は、手ぶれのリスクを除けばほとんど完璧だ。だいいち敵はカラーだし、コントラストが強すぎる画面では、自動的に補正する2つ目の画像までが写ってしまう。一緒に持ち歩いている暗箱なんかバカバカしくてやってられないと、ふっと思いかねないほどの、危ない代物である。
 それでなくても、かつてフィルムカメラをふりまわしていた仲間たちが、次々とデジタルに取り込まれていくのを目の当たりにしているから、ここで踏みとどまらないと、あえなく白旗をかかげることになりかねない。要は「気」だ。撮る側の「気」である。ここはひとつ、暗箱大明神復活を宣言せずばなるまい。
 手がかりは、ポートレート写真の原点、写真館写真の作法である。失敗しないためにあらゆる気配りをする。被写体の配置、露光、ライティング、ピント合わせ、絶対に手を抜かない‥‥写真館と違うのは、撮影の意図である。これを明確にしないといけない。(上は高校の山登りと写真の仲間たち。珍しく気が入った1枚だ)
 そのうえで、ほんのちょっと周囲への迷惑を押して果敢に撮る。むろん1枚しか撮らない。そうして、写真の原点を、デジカメとは違う写真を示し続けることである。笑わば笑え。何とでもいえ。こちらは大明神だ。怖いものなんかない。

四面楚歌

 ヨドバシカメラで、キャビネの現像を頼もうとしたら、「4x5(インチ、以下同じ)より大きいものは受けてません」という。「何いってんだ。あそこの棚にあったフジのフィルムだよ。こないだまで現像を受け付けていたじゃないか」といったのだが、現像所に電話したりして、結局ダメですという。

 「現像所が変わったの?」「いえ、変えてません」。料金の一覧をもってきたら、「キャビネ 中止」とあって、「4月1日現在」とある。おいおい、間違いなくそれよりあとに現像を頼んでるよ。いえ、ダメなものはダメですと。店が売ったフィルムだというのに、なんともむちゃくちゃな‥‥幸いまだ、現像してくれるところは別にあったのだが‥‥。
◆さらばイギリスサイズ
 たしかに、キャビネにしろ手札にしろ、頼むたびにすったもんだしてはいた。とにかく持ち込む都度、店員が「これは何ですか?」というのだから、もう長いことご臨終間近ではあった。それがいよいよ現実になってきたのである。
 まずはフィルムだ。フジが先頃、イギリスサイズのキャビネ、手札を切るのをやめたと聞いたので、あわてて確かめてみたら、やめたのは11x14で、キャビネ、手札はとうの昔にやめているのだという。ヨドバシで売っていたのは、写真館用に出していたものの残り、ないしはヨドバシがまとめて切らせていたものらしい。
 日本の写真館は、戦前からイギリスサイズが標準で、フジが長年キャビネ・手札を作り続けてきたのも、写真館の需要のためだった(上の写真は、昭和20年のわが国民学校の記念写真。学校は7月の空襲で焼けてしまったが、キャビネの密着焼きはちゃんと残った)。ところが、その写真館がどんどんデジタル化してしまったのだから、あとは推して知るべし。現にしばらく前から、ヨドバシのフィルム棚が心細くなって、新宿で最後にひとつあったキャビネの箱を買ったのが、夏頃だった。
 その後しばらくタグだけが残っていたが、それもなくなってしまった。そして、現像の方も「中止」と、両面から攻めてきている。本家がとっくの昔につぶれたあとも、東洋の果てで営々と続いたイギリスサイズも、いよいよ落城となるのか。
 これもまあ、仕方がないのかもしれない。キャビネのフィルムで撮っているという話は、わたしの周囲の友人以外は聞いたことがない。それでも、キャビネのカメラは数が多いし、5x7の撮り枠流用もあるから、物好きはまだいるだろうという気もする。だが手札となると、実用になるカメラが、スピグラくらいしかないのだから、まさに絶望的だ。フジを責めてもはじまるまい。(左:友人自慢のロータス・エランをイギリスサイズで‥‥キャビネは縦横のバランスがいい)
 しかし、それだけではすまなかった。今度は、デジタルでの読み込みまでがおかしなことになっていた。
◆目からウロコ
 このところ、現像したフィルムは、キンコーズに持ち込んでデジタル化していた。A4版のフラットベッド・スキャナーに、何枚か並べて一気に読んで、手早く仕上げると10分内外でメモリチップに収まったのだったが、10月に行ってみたら、スキャナーが全部35ミリ判用に変わっていた。
 「どうしたの?」「新型に変わったんです」「前の機械はそこらに置いてないの?」「リースですから、みな持って行ってしまいました」「じゃあ、他の店は?」「同じです」。一カ所くらい古いままのところがないかと聞いてみたが、見事になかった。
 「なんだよ、スキャナーを買えということか。高いスキャナー買う金がないからここへくるんだろうに」といっても始まらない。大判なんか読み込むのが悪いといわんばかり。(下:秋祭り 5x7の撮り枠にキャビネフィルムで)

 いまはもう町の写真屋さんでも、デジタルのいろいろなサービスをやっているから、ひょっとして、と探してみた。ようやくひとつ、芦花公園駅の近くーーいつもイヌの散歩で前を通っている写真屋が「できます」という。小さな店だが、外注ではなく自前でCDに読み込むらしい。料金は高めだが、まあ、緊急避難にはなりそうだ。
 そうこうするうちに、知り合いのカメラマンが、「スキャナーなんかいらない。ライトボックスに乗せてデジカメで撮って、反転すればいい」といっていたのを思い出した。試しにライトボックスに5x7のフィルムを乗せてコンパクトデジカメで撮ってみたら、あーらら、ちゃんと出てくるではないか。
 これが面白い展開になった。ヨドバシとキンコーズへの恨みやらデジカメ撮影のいきさつをmixiで並べたてていたら、マイミクの1人が、「フラットベッドにライトボックスを乗せると、フィルムの読み込みはできます」という。「エーッ!」である。
 透過原稿(つまりフィルム)を読み込めるスキャナーは、フラットベッドのフタに光源があって、高級な高いもの、プロが使うものだと思い込んでいた。現に某所でたまに使わせてもらっていた機械は、とてつもなく高いものだった。だが、この友人によると、光源はライトボックスでも、あるいはアクリル版かすりガラスを乗せて上から光を当てれば、原理は同じだというのだ。まさに目からウロコ。
◆無頓着の報い
 わたしが使っているスキャナーは、初期のフラットベッドだ。反射原稿にしか使えないと思っていたのだが、確かめてみると、透過原稿用のユニットを乗せることができるのだった。そこで友人の言に従って、ライトボックスを乗せてみた。
 専用のユニットではないからフィルム用のオプション操作は機能しない。そこをかまわず、反射原稿の読みをやってみたら、ネガの画像が鮮明に出るではないか。明らかにライトボックスの効果だ。そこで反転すると、苦もなくデジタル化ができたのだった。(左:大坂純史さん。Bergheil 9x12でアメリカ・手札)
 それが完璧かどうかは、また別の話。デジカメで撮っても、このブログで使える程度には出る(下の写真左)のだが、それよりかなりいいのは確か(同右)。デジタル技術の凄さに感動すると同時に、知らないとはなんと恐ろしいことかと、あらためて思った。
 高い値段のフィルム用スキャナーを使っている人たち(ほとんどがプロ)でも、その装置がライトボックスやすりガラスと実質変わらないのだと、はたして知っているだろうか。メーカーは、ユーザーの無知をいいことに、さも高級品のように売っている‥‥まあ、世の中とはそんなものであろう。

 かくて大判フィルムの読み込みは、なんとかめどがたったのだが、全てよしとはならなかった。テストを繰り返していると、どうもキズが多い(上の右写真とその上の人物写真)。ネガを見てもそんなキズはない。なんと、スキャナーのガラスの表面のキズがもろに出てしまうのだった。こんなにキズが?といぶかったが、よく見ると確かにある。
 そう乱暴に扱ったつもりはないのだが、「ガラスだから」とティシューかなんかでゴシゴシやったせいであろう。フィルムを浮かしてみたがダメ。反射原稿ではこんなことはなかったのに、フィルムはやはりデリケートだ。こうなれば入念に場所を選んでフィルムを置いて、最後はスポッティングしかない。無頓着の報いである。
 それにしても、デジタルの威力はたいしたものだ。プリントをあきらめてしまった(暗室と縁が切れたのと、プリントが多すぎて増やさないことにした)から、なおのこと感ずるのかもしれない。photoshopの操作は、暗室作業に較べると待ち時間ばかりで辛気くさいが、焼き損じはないし、トーンを整えるのもスポッティングもはるかに楽にできる。あがりがどうのこうのとなっても、いざとなればフィルムがあると、これが最後の拠り所である。
◆サイズをうろうろする楽しさ
 だから、そのフィルム自体が危うくなってきたとなると、話のそもそもがひっくり返ってしまう。デジタルもへったくれもない。フィルムがなければ、大判の世界は終わる。これまでも、大陸判はとうの昔にフィルムが終わっていたから、かっこいいフランスカメラも、やむなくアメリカサイズに変換していた。そして今度はイギリスサイズか。
 しばらく前の「禁じ手は自由の証」で書いたように、わたしの大判作法は、端からアメリカサイズへの変換をにらんだ、いわばいかがわしいスタートだった。いってみれば、いつ大陸サイズやイギリスサイズが終わっても、さっさとアメリカサイズに逃げられるのである。まあ、5x7だけはフィルムがちょっと不自由になってはいるが‥‥。
 しかし、お読みいただいておわかりのように、この連載の重要なポイントは、オリジナルの機器をそのまま使って、50年100年前の同じ撮り方で撮る、そのスリルと危うさを楽しむことなのである。ただ大判を遊ぶのとはちょっと違って、わがままでへそ曲がり。でなければ、わざわざ変なフィルムサイズをうろうろしたりはしない。
 そのうろうろが楽しいのだ。とくにイギリスカメラの木の香り(別に匂いはしないが)、工作と塗りの美しさ、頼りない金具の融通無碍、木製三脚の面白さ、バレルレンズの輝き、ソーントンシャッターの手加減(いい加減)、木製撮り枠は油断すると光線漏れもある‥‥これらの一つひとつが、カメラというものの原点への旅、昔の写真師と競い合う面白さにあふれているのである。(上:福田文昭さんの写真展で。純イギリス式の手札撮影。Sanderson Field 1/4)
 この遊びを支えてくれていたのが、フジのキャビネと手札フィルムであり、ヨドバシカメラだった。だというのに、なんたること。時代の荒波は理不尽すぎるではないか。だれかれかまわず噛み付きたくような気分である。「オレの楽しみをどうしてくれる」
 幸いなことに、手持ちのフィルムはまだ底をついてはいない。どころか、まだかなりある。せめてこの間に、イギリスサイズのあれやこれや、フィルムを詰めて撮り歩いてやろう。そういえば、木製三脚もしばらく使っておらず、撮り枠もあくびをしていた。イギリスレンズもご無沙汰、ソーントンシャッターはまだ動くだろうか。
◆やっぱりアメリカか
 ん? ということは、このところイギリスサイズはずっとアメリカ変換カメラで使っていたのか? アメリカのスプリング・バックは便利だからねぇ。これは面目ない。次の機会には、必ず、必ず。ちょっと面倒くさいが、純イギリスでいくとするか。
 要するに、こういうことなのである。撮影に出る時、ついつい便利で扱いの楽なカメラに手が伸びてしまう。となると、アメリカ式だ。キャビネでも手札でもフランスサイズでも、わたしのカメラはみなアメリカ式で撮れるようになっている。そもそもその「禁じ手」から始まっているのだから仕方がない。
 いまいちばん出番が多いのがイギリスの無名フィールド(キャビネ)で、一度車にはねられてバラバラになったのを、修復したときにアメリカの5x7に変換してしまった。5x7の撮り枠には、キャビネを装填できるものがあるので、これが5x7、キャビネのメインになっている。理由は簡単、ディアドルフ5x7よりはるかに軽いのである。(左:日本橋で。No name British Field 1/2, Emil Busch Aplanat 下は、このキャビネ判を5x7に変換する仕組み)
 また、ベルクハイルの9x12センチ判(大陸の1/4サイズ)は、バックが手札のスピグラ用スプリングバックがついているから、これもアメリカ。フランスの暗箱も、ディアドルフの4x5バックになっているから、半分ディアドルフなのだ。
 純イギリスタイプは、ソーントンピッカードのキャビネと手札、日本製のキャビネとフルサイズがあるが、どれも木製撮り枠だから、ちいと面倒だ。とくにフルサイズはフィルムがないから使ったことがない。別のフルサイズは、8x10に変換してしまった。
 こうして書き出してみると、あらためてアメリカの規格と合理性が、大判を支えてきたことがわかる。世界中から入ってくるカメラを、アメリカ規格のバックとフィルムで使えるように工夫するのは、ディーラーの仕事だった。また輸出でも、イギリスや大陸の規格に合わせて様々な工夫が凝らされた。そうして作られた「付け替えバック」や「撮り枠」なんかが、いまもeBayなどで売られているのだから、アメリカ人の懐の深さには、ただただ脱帽である。
 ただ、いまとなってはさすがに、そうした機材の使い方やフィルムサイズをわかっている人は少ないようで、扱いは大方がらくた同然だ。先のスキャナーではないが、知らないというのは恐ろしい。お陰でわたしは安く遊べているわけだが、わたしの「禁じ手」の時代は、案外早く来るのかも?という予感はある。
 ところがその矢先に、とうとう5x7フィルムの手持ちが切れてしまった。するとまたキャビネとなるのだが、フジの事情は前述の通り。まさに四面楚歌である。いったいどうなることやら。イギリスカメラの命脈もほどなく尽きてしまうのだろう。なんとなく寂しい年の暮れになりそうである。

殿様は写真がお好き

 「朴多瓦刺非」。これ読めますか? 幕末の昔、尾張藩14代藩主徳川慶勝(よしかつ・写真下)が記したメモに出ていたものだ。答えは「ポトガラヒイ(photography)」、そう、写真のことである。といってもまだ明治になる前だから、当然湿板写真だ。これを徳川御三家筆頭の尾張の殿様が、自分で撮っていたのだから驚く。
 慶勝の作品は、山手線目白駅に近い徳川黎明会・徳川林政史研究所に保存されている。研究所は、名古屋の徳川美術館とともに、尾張徳川家300年の美術品、古文書、記録を保管しているが、約1万点あるといわれる写真の中で、いちばん古い1000点が、慶勝が撮った湿板写真だ。
 慶勝が写真を撮り始めたのは、37歳のときだという。まだ、下岡蓮杖や上野彦馬も写真技術をつかまえていなかった。いったいどうやってそれを会得したのか。実は慶勝自身が研究の最先端にいたのだった。
◆歴史の巡り合わせ
 日本で最初に写真に手を染めたのは、薩摩藩主・島津斉彬である。嘉永元年(1848年)、御用商人の上野俊之丞(上野彦馬の父)がオランダからダゲレオタイプ一式を輸入し、翌年斉彬に献上した。
 薩摩は鉄砲、製鉄、造船、火薬、ガラス製造から電気・電信の実験までするほど、時代の先端技術・情報吸収に貪欲だった。斉彬は家臣の市来四郎らに研究させ、自らも手を出しているが、まだ化学薬品の知識もない時代である。結果を出すまでに結局8年を要した。しかし、1857年に撮影された斉彬の肖像は、日本人の手による唯一の銀盤写真として、いまに残る。(左下)
 この間に、来航したペリー艦隊やロシアの艦隊の写真師が、日本各地で実際にダゲレオタイプを撮影してみせたために、姿や景色が鏡のように写る「印影鏡」として大変な話題になっていた。といっても、むろん一般庶民のものではない。真っ先に関心をもったのは各地の大名たちだった。
 なかでも水戸藩徳川斉昭は、家臣を薩摩や長崎に派遣して技術を学ばせるほどの、熱の入れようだった。斉彬もまた、斉昭に宛てた手紙に「鏡ニヨヂューム(沃素)之気ヲウケサセ‥‥影ヲウツシ夫ヨリ水銀ノ蒸気ニ当テ‥‥」などと、技術的なことまで書いている。これも相当な入れ込みようである。
 実は斉彬は、藩主になる前から、斉昭のほか尾張徳川慶勝、土佐の山内容堂、越前の松平春嶽らと親交があった。いわば改革派若手リーダーの情報ネットワークで、彼らは、日米修好通商条約の調印と将軍後継で幕府に異を唱えたため、安政の大獄安政5年、1858年)で一斉に謹慎処分を食らう。
 徳川家定に養女篤姫を嫁がせていた斉彬は、将軍後継で一橋慶喜を推していた。大老井伊直弼紀州徳川家茂を立てたのと大獄に抗議して、兵を率いて上洛する準備に入ったが、その最中に急死するのである。一方の井伊は安政7年(1860=万延元年)、桜田門外の変で、水戸、薩摩浪士に暗殺され、歴史の歯車がひとつ回った。
名古屋城研究所は最先端
 狩野派の絵師であった下岡蓮杖が、訪れた薩摩藩江戸屋敷銀板写真を見て、写真に転じたことはよく知られている。彼が学んだのは湿板写真で、横浜のアメリカ人ウンシンからだった。一方の上野彦馬は、長崎の海軍伝習所で化学を基礎から学んでいる。その過程で蘭書の中に見つけたのが「朴多瓦刺非」で、これも湿板だった。2人がそれぞれ試行錯誤の末に写真館を開くのは、文久2年(1862年)である。

 ところが慶勝には、文久元年9月の肖像というのがある(写真右)。写真研究では、彦馬らとほぼ並行していたことがわかる。なにしろ殿様だから、やることが徹底していた。側近や洋学者を動員して技術書、研究書の翻訳から、撮影に必要な薬品の知識の研究をする一方、島津、水戸など大名間の情報交換も盛んに行われた。政治情報ネットワークが、写真の方でも役割を果たしたのだから面白い。
 「朴多瓦刺非」は、彼の研究グループが書き残したメモに出てくる。慶勝は殿様ルートに限らず、長崎や横浜、大垣などの情報も直にとっていたようで、「彦馬法」「横浜口金液法」などという記述もある。実験もやっていた。名古屋城の中にけっこうな研究所があったわけだ。(右・慶勝らが残した写真メモ「真写影鏡秘伝」の一部。原文は毛筆である)
 また、機材(カメラ、レンズ)なども、御用商人を通して直に輸入していたようで、「英国江注文致候へハ六ヶ月二して参着の由」などのメモも残っている。技術的にも、名古屋城のレベルは相当なものだったらしい。化学知識もなしに、手探りで薬品をいじっていた下岡蓮杖よりは、数段上だったかもしれない。
 当時殿様より偉いものといえば、皇室と神社、仏閣を除けばカメラしかなかったから、殿様がカメラを持ったら向かうところ敵なしである。家老だろうが何だろうが、「それへ直れ」で済む。「動くでないぞ」のひと言で被写体は凍りつくから、湿板どころかダゲレオタイプだって撮れてしまっただろう。こんな楽しいことはない。
 現に、そうして撮った家臣の井出重光という人の肖像が残っていて、NHKの特集に出ていた。子孫の女性が祖父から聞いた話というのが面白い。あるとき慶勝にいきなり「それへ直れ」といわれて、首をはねられるのかと思ったら写真だったのだと。その写真は、当人にくだされたコピーしかないらしく、残念ながら研究所には残っていなかった。
◆謹慎で生まれた写真の時間
 徳川慶勝は、美濃高須藩松平家の出である。御三家筆頭の尾張藩は長年江戸からの養子が続いて、藩主の浪費で藩の財政が傾いていたのを立て直す必要があった。そこで、見込まれたのだったが、江戸派との間で結構すったもんだがあった末の養子入りだった。
 しかし、彼は持ち前の几帳面さを発揮して、いまでいう「緊縮」と「事業仕分け」に自ら取り組んで、7年で財政再建に成功する。その実績から「改革派」と目され、島津斉彬徳川斉昭らと親交を結んだが、尊王攘夷だった彼らの幕府への口出しが増えたために、安政の大獄となったのは皮肉だった。家督実弟徳川茂徳(もちなが)が継いだ。
 しかし、お陰で写真研究の時間が生まれたのだった。慶勝は、名古屋城の内外を撮りまくった。本来秘中の秘である名古屋城内の造りでも室内の様子でも、隠密の手にでも渡ればともかく、殿様のやることに家来が文句をいえるものではない。
 当時のカメラの威力たるやたいしたものだった。後に明治天皇御真影を撮った写真師内田九一が、天皇の姿勢を正すためにうっかり頭に触れてしまった。天皇の体に触れるなぞ許されないことだが、天皇は「咎めるに及ばず」といったという。カメラは天皇も一目置く存在だったのである。

 しかし、慶勝の写真三昧の日々は長続きしなかった。文久2年(1862年)に謹慎がとけると、将軍家茂の補佐、また尾張藩主に実子の義宣が就いたため後見役。元治元年(1864年)の禁門の変のあとの長州征伐では、征討軍の総督を勤めている。参謀は西郷隆盛だった。慶勝は幕府の方針に反して長州の恭順を受け入れ、第2次長州征伐には反対した。これが慶勝の兄弟の命運を分けた。
 慶勝には「高須4兄弟」といわれた兄弟がいた。左の写真・右端の慶勝から左へ順に、一橋家入りから尾張を継いだ茂徳、会津藩主の松平容保(かたもり)、桑名藩主の松平定敬(さだあき)だ。会津の容保は京都守護職、定敬もまた京都警護にあたり、一橋慶喜とともに、禁門の変鳥羽伏見の戦いを戦った。
◆時代に引き裂かれた四兄弟
 しかし、長州征伐のあと薩長連合ができて、形勢が大きく変わる。長州は一転、尊王派が力を持ち、薩摩の西郷もこれに加わっている。朝廷を後ろ盾にした官軍は、鳥羽伏見の戦い(慶応4年1月)で徳川勢を破り、敗れた容保、定敬は江戸へ逃げた。追撃の官軍は、東海道中山道を進軍するかまえ。沿道はすべて徳川方の諸藩だ。戦になれば泥沼になる。
 ここで、分岐点にあたる尾張藩がどう動くかが焦点になった。すでに前年に大政は奉還され、徳川幕府は終わっていた。慶勝は上洛して新政府の役職、議定(ぎじょう)に任ぜられていたから、諸藩は慶勝へ手紙を送って、戦はしたくないと訴えた。慶勝は新政府軍に従うと決め、43の藩が一斉にこれに従って、流血は避けられたのだった。
 しかしこれで、弟2人は逆賊となった。慶勝の誤算は、無血で江戸に入った官軍が、さらに北へ攻め上ったことだった。会津若松城にこもった容保は、歴史に残る激戦の末に降伏。さらに北へ逃れた定敬も函館で捕らえられた。慶勝は、弟2人の助命に奔走する。なんとも数奇な巡り合わせだった。
 慶勝は明治3年(1871年)名古屋藩知事になるが、半年で辞め、明治4年廃藩置県で、名古屋城も引き払う。この頃慶勝はまた、写真に戻っている。名古屋城空堀、城内、修理のため地上に降ろされた金の鯱とか、いまとなっては貴重な最後の名古屋城のいろいろな光景が残っている。また、東京に移ってからも、隅田川のあたりの風景や人々を湿板に残した。
 明治8年に、実子の義宣の病死を受けて再度当主に就いた(17代)が、そのあとの明治11年に4兄弟が銀座で会合して、一緒に撮ったのが上の写真である。激動の幕末をそれぞれに生きた兄弟が、いったいどんな話をかわしたのか。この年はまた、尾張藩士の北海道開拓が始まった年で、慶勝はこれを指導している。が、2年後に隠居。さらに3年後の明治16年に死去した。60歳だった。
◆写真好きのDNA?
 慶勝の死後、慶勝が撮ったとみられる会津若松城の写真がみつかった(上)。砲撃で穴だらけになった無惨な姿である。いつ撮ったものか。わざわざカメラをもって会津まででかけていたのか。運命の皮肉とはいえ、弟容保の無念を形にとどめたいと思ったのか。気持ちをうかがい知ることはできないが、歴史的にも貴重な1枚である。
 慶勝が亡くなってしばらくして、最後の将軍徳川慶喜実弟で最後の水戸藩主だった昭武が、そろって乾板写真を撮り始める。2人は、かつて島津斉彬銀板写真に並々ならぬ好奇心を示した斉昭の息子だ。写真好きのDNAが伝わっていたのか、これも面白い巡り合わせである。
 1889年(明治22年)、昭武が松戸に作った戸定邸慶喜が初めて訪れたとき、江崎礼二が呼ばれた。日本で最初に乾板を使って隅田川水雷写真(左上)を撮って、「動くものを撮った」「早撮り礼二」ともてはやされた写真師だ。2人はこれに触発されたらしい。すでに乾板である。カメラも進歩して、秘伝のワザは要らなかった。
 慶喜の場合は、「幕府を潰した」という責任感から自ら謹慎していたのだが、ここでも謹慎という時間が写真に向けられたのだから面白い。彼は、当時住んでいた神田や静岡の別邸を中心に、当時の風景や側近の人たちを撮った。ステレオ写真まで試みている。

 中に、九段の靖国神社大村益次郎銅像を撮ったものが何枚かある。大村といえば、いうまでもなく日本陸軍創始者だが、官軍の総大将として寛永寺に立てこもる彰義隊に大砲をぶっ放した男だ。慶喜はいったいどんな気持ちで撮ったのだろう。また道行く人も、暗箱で撮っているおじさんが、先の将軍サマだと知ったら、腰を抜かしたかもしれない。(慶喜が撮った大村益次郎銅像。100年以上経ったいま周囲の樹木は銅像より丈が高い。松戸・戸定歴史館所蔵)
 一方の昭武は戸定邸の周辺や旅先で実に意欲的に撮っているが、几帳面に撮影メモを残している。日時、場所、シャッター、絞り‥‥写っている写真の光線の具合から、当時の乾板の感度がわかる。だいたいASA10から12くらいで、けっこう撮りやすかったようだ。華族・士族の写真クラブみたいなものもあって、慶喜も昭武も大いに活躍している。
 これに較べると、慶勝の湿板写真は難しさもけた違いだったはず。カメラ、ガラス板、薬品を持ち、簡易暗室も必要だった。機材を運ぶだけで、人夫やカゴが要る。名古屋城でならともかく、殿様でなくなったあとに、どうやって会津若松までいったのか。しかも、残っている写真はたった1枚だけである。
 実は慶勝のメモで、いちばん見たかったのは、露光時間だった。当時すでに西洋式の時計はあったにしても、「秒」という単位が実用になっていたのかどうか。しかし、目を通すことができたレジュメでは、その記載はなかった。
 とはいえ、カメラを前にレンズキャップをはずして、「ひい、ふう、みい」と時を数えていたのは間違いない。肖像では謹厳実直そのものの慶勝が、そうして数えている様を思い浮かべると、何とも微笑ましい気分になる。
 (徳川慶勝関係の写真・資料=上から1、3、4、5、6=は、いずれも徳川林政史研究所所蔵)
         *    *    *
 会津若松城の写真について、下のようなコメントがありました。会津若松市のHPにある「蘇る鶴ヶ城」のなかに、3枚の写真が出ていて、うちの1枚が上に載せた写真と同じです。そして「小山弥三郎という写真師が撮ったものだ」「小山弥三郎ではないかもしれない」という2つの見方が示されています。どうやら徳川慶勝が撮ったものではないようです。これが古写真探求の面白さでしょうか。ご参考まで。
 http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/fukugen/fuku03.htm
 http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/fukugen/fuku22.htm